BLACK PEPPER(1)

シカゴは第二のゴールドラッシュに沸いていた。

もちろん、鉱脈が見つかったわけではない。ヨーロッパを中心に世界が軍備拡大にむかっており、元々巨大な工業地帯を持つイリノイはさらに発展を遂げ、国内における商工業、交通、政治、財政の中枢的存在になりつつあった。イリノイ川を経由して五大湖ミシシッピ川へと続く水脈は、良港を持つシカゴに莫大な金を流入させた。金が集まれば、人も集まる。ヨーロッパからの移民や、南部の田園地帯からも働き口を求めて、大移住ともいうべき人口の爆発的増加が起こった。そしてイリノイの人口の八十%がシカゴを含む北東部に集まっていた。サチはグリーンランドの豚を見ながら、ウィスキーを口に含んだ。アルコールの匂いがきつく、味もしかり。喉が火傷しそうだ。質が悪い。唇をなめながら一つ閃いた。杯を持ったものがすべてを手に入れるのではなく、すべてを手に入れたものが持てる杯なのではないか。そこまで考えて、自分がさほど興味のない噂だと我に返り、ひとり苦笑いをした。

考え事をしていたせいか、隣に女がいて、しかもこちらを見ていることに気付くのが遅れ、内心舌打ちをした。自分のあずかり知らぬところで自分に関することが起こるのが好きではなかった。

「サチね」先に口を開いたのは女の方だった。

「イリップか」サチは最後の一口を呷り、また苦笑した。

「なにか面白い事でもあったの」

「男かと」

「こっちも、女かと」

サチはまた一つ、苦笑した。

大切なこと(でもかんたんなこと)

こんにちは(おはよう?それともこんばんは?)

お元気ですか?わたしは元気です。

とつぜんですが、今日は一つ、大切なお話をしたいと思います。

でも安心してください。かんたんなことです。

あなたはこれからたくさんのマンガや本を読むことになると思います。

そしてたくさんの絵を見るでしょう。

たくさんの動物や植物を知るでしょう。

たくさんの人と出会うことでしょう。

その中で自分の考え方がひっくり返ることもあると思います。

そのとき、すごくこわくなるかもしれません。

でもだいじょうぶです。

あなたのことはわたしが見ています。

だから、自分がやりたいと思ったことをやりましょう。

でも、ちょっとでもやってはいけないと思うことはしないこと。

それだけで、心のもやもやがなくなります。

それを、信念(しんねん)といいます。

ひとことで言うと

自分が正しいと思ったことをやる。

ね、かんたんでしょう?

 

 

結んで開かず(完)

 二中には入学というかたちだったけど、引っ越してきたばかりなので中身は転入とおなじだった。入学式が終わりそれぞれの教室に入る時も、仲の良いもの同士おしゃべりが止まらないといった感じだった。先生が入ってきて、「春休みの思い出や中学での目標なども含めて自己紹介して下さい」ということになった。出席番号順に座っているその場で立ち上がり、一人一人発言する度に周りから笑いが起きたり、はやし立てたり、ヤジが飛んだりした。僕は全員と初対面なので、その雰囲気に乗ることはできなかったけど、一人だけ顔をまじまじと眺めた生徒がいた。瀬戸口といって、春休みに水泳の大会で優勝して中学でも水泳部に入るつもりだと、一際大きな声を教室に響かせたからだ。そうか、一年生で一番速いのはこいつか。僕より頭二つ分は背が高く、真っ黒に日焼けした顔は、目と歯が妙に目立っていた。
 順番が僕に回ってきた。中学の目標ならまだしも、春休みは住む環境が変わったばかりで、思い出もなにもない。六組のみんながお別れ会を開いてくれたのは嬉しかったし、これからも忘れないだろうけど、それを新天地で発表してもみんな困るだろうと思い、桜島に行った話をした。すると斜め前に座っていた女子がプッと吹き出し「桜島って」と誰かと目くばせしながらクスクスと笑った。不穏な、嫌な感じのする笑い方だった。
 

 掃除の時間になった。僕は前の席に座っている男子に話しかけた。
「雑巾がけってバケツ使うの?」
「いやー、俺も分からん」
「あ、そっか。あっちの水道で洗えばいいのかな」
「どうだろうね」
と、その後も二人で行動していた。そのうち会話もなくなり、なにか話す事ないかなと思案し、そういえば裕美が二中に来るはずだったのではなかったかと思いだした。聞いてみると、知らないと言う。続けて、二中は二つの小学校から上がってきてるから、中原台小学校の方なのではないかと言い、近くにいた女子に「台小?」と聞いてくれた。
「そうだけど」と振り向いたのは、さっきクスクス笑っていた女子だった。「台小だけど、なに」と少し高圧的にこっちを見た。名札には福島とあった。
「あ、いや、裕美知ってるかなと思って。国東博美」
「くにさき……ああ、知らない」福島はクスクス笑った。
「え、今、ああって」
「知らないよ」と突っぱねて「みんな知らないんじゃない」とまた、クスクス笑った。いや、見下しているんだ。自分より劣ると見たものを笑いものにする目だ。しかも僕の事ならまだしも、福島の視線の先に見えているのは、裕美だ。僕は裕美の、影に逃げ込むような力のない笑みを思い出した。裕美にあんな目をさせたのは、こいつらか。
「おまえ」僕はどうしようと考える前に、福島に向かって一歩踏み出していた。
「なんなの」福島は低い声で睨み返して「影子の友達?近寄らないで」と両腕をそれぞれ違う方の手でさすりながら、一歩退がった。
腹から何かが込み上げて、心臓をふつふつと沸き立たせ、温度を上げた血液が全身の筋肉を震わせた。怒りを自覚したのは初めてだった。耳のすぐ傍で自分の鼓動が聞こえる。手を上げるわけにもいかず、こんなやつに発する言葉もない。でも、引きたくない。にらみ合う二人の間に割って入ったのは瀬戸口だった。僕の詰襟を両手で持ち上げ、前後に揺らしながら
「わい、あんまはまんなよ」と歯をむき出して言った。こいつもそっち側か。
「なんて?」僕も言い返す。
「調子に乗るなって事」瀬戸口の背中から福島がクスクス笑う。
瀬戸口は多分、水泳部に入るだろう。僕も綾との約束を果たすため、水泳部に入る。僕はこの学校で生きていかなければいけない。どうする?ここで何かあったら、この先に平穏な生活は望めないかもしれない。そして裕美には今度いつ会えるか分からない。ひょっとしたらこの先会うことは無いかもしれない。それでも、引きたくない。友達と、胸をはって笑いあいたい。僕は、拳をぎゅっと握った。どうするかなんて
「決まってる!」
吠えるように放った僕の声に、瀬戸口の背筋が一瞬ピクリと伸びた。同時に襟元をねじり上げている手も緩んだ。僕はその手に、思いっきり噛みついた。

 


         結んで開かず(完)     花村 由

結んで開かず(十七)

 卒業式のその日のうちに真一さんに連れられて飛行機に乗り、空港近くの駐車場にとめてあったデボネアに乗り込んだ。今日で友達みんなと別れなければいけない寂しさと、その事を自分ではどうすることもできない無力感を、訴え嘆く対象も見つからないまま、自分のうちに閉じ込め、それがまた行き場の無い怒りとなり、僕の手足をわなわなと震わせた。物凄い速さで小さくなってゆく島を飛行機の窓から眺め、もう来ることは無いかもしれないという感傷に浸りながら、一方では、やっと父と離れられるという安堵と解放感で胸を撫で下ろした。それと同時に、友との別れより己の束縛からの解放を喜ぶのかと罪悪感が湧き出し、整理できない感情の渦に巻き込まれて、息も絶え絶え、混乱と放心を繰り返した。
 真一さんが運転する車は桜島に入り、祖父母の家があった場所で止まった。今は真一さんの経営するゴルフ練習場の倉庫に建て替わっている。車を降りると県道越しに海が見え、倉庫の裏手には黒いスポンジのような岩がゴロゴロしている。噴火で吐き出された火山岩だと真一さんに聞いたことがある。僕が初めて来た時にはすでに倉庫になっていたので、元はどんな家が建っていたのかは知らないし、祖父母の記憶もない。海と火山という暴力的な一面を持った自然に挟まれた生活は、どんなものだったのだろうと想像したことがあったけど、僕だったら壁一枚隔てた外に溶岩で出来た岩が転がっていると思うと、夜も眠れないんじゃないかと思った。
 倉庫の裏から続く車では入れない細い道を5分ほど上ると、きれいに磨かれた石で区切られて墓石が立っている。登ってきた道を見下ろすと、倉庫の屋根が西日に染まっている。その先に錦江湾とそれを挟む大隅半島薩摩半島があって、遠くには開聞岳が見える。真一さんの先導で倉庫から持ってきたバケツと雑巾で墓石の汚れを落とし、ほうきで落ち葉を集めた。線香を焚き、卒業の報告をしなさい、と真一さんは手を合わせる。僕は墓参りとか、仏壇に線香をあげるのが苦手だ。会った事もない祖父母や先祖様と何を話すのか。報告しろと言われても、その対象のイメージもはっきりしないから空中に向かって話しかけてるみたいだし、いつ終わっていいのかも分からない。したがって、手ごたえもない。祖父母や先祖様のお陰で僕も今、生きていることは分かっているし、普段の生活の中ででも、ふと考えることもある。死んだ人たちが仏様になって空から見守ってくれているんだったら、その事にも気付いているはずだし、わざわざお墓の前でこれ見よがしに手を合わせる必要があるのかなと思う。かと言って何もしないわけにはいかず、真一さんに倣って手を合わせた。卒業できました。お母さんを治してあげて下さい。

結んで開かず(十六)

 式次第は順調に消化され、卒業式は滞りなく終わった。来てくれた真一さんと記念撮影が終わり、六組のみんなと写真を撮ろうとあたりを見渡していると、盛隆先生に職員室に来るように言われた。真一さんと別れ、職員室に向かうと、これまでみんなで作成してきた卒業文集が印刷屋から届いているので、中身をチェックして欲しいと言われた。段ボール二箱分の卒業文集をパラパラとページをめくり、抜けがないか一冊一冊目を通した。それが終わると、盛隆先生と副担任の先生と僕で手分けして文集を教室まで運ぶことになった。HRにずいぶん遅れてしまったけど大丈夫なのだろうかと段ボールを抱えて教室に入った。その瞬間、僕は息をのんだ。折り紙で輪を作ってそれを繋げた飾りが教室中に張り巡らされていて、机は班をつくっていくつかにまとまって、その机の上にはお菓子や紙コップが並べられ、黒板には、喜一お別れ会、とでっかく書いてあって、その周りにみんなの寄せ書きや、昇のイラストが所狭しと踊っていた。僕は一瞬、体の力の入れ方を忘れ、段ボールを落としそうになった。振り向くと、
「みんなから頼まれてね」と盛隆先生がシーサーのような顔をほころばせて頷いた。尾関が司会をして、浩哉が一発芸を披露し、秋博が盛隆先生のものまねをして、美雪が笑い、裕美が手を叩いた。最後に、みんなで六年六組の歌を歌った。永遠なんて信じていなかったけど、ずっと友達だ、というみんなの言葉は信じれた。

 

結んで開かず(十五)

 僕が通っているスイミングスクールは、プールサイドが広くて、そこで練習前の準備体操をすることになっている。その時僕は、窓に映る自分を見て身体のチェックをする。両手を真っすぐに上に伸ばして自分の手を握り上体を傾ける運動の時、広背筋に押し出された肩甲骨が、脇の横に魚のヒレのように張り出すのを見て、満足した。

 速く泳ぐためには、綺麗なフォームと筋力アップが不可欠だと早い時期から考えていた。そして、クロールと背泳ぎは、キックだけよりも腕で水をかくだけの方が速い事にも気付いていた。メドレーで考えた時、バッタ、バック、平、クロールの内、キックが重要なのはバッタと平、水をかく力が必要なのは四種共通ならば、上半身を鍛えた方が手っ取り早くタイムは縮むと考えた。週四時間しかない練習時間を有効に使うため、バッタと平のキック練習は真面目に取り組んだけど、バックとクロールのキック練習は力を抜き、その分の体力を腕に回した。流し練習でも、下半身は力を抜き、浮力を失わない程度に腰の回転だけに任せて、なるべく腕の筋力だけで泳いだ。負荷をかける為に息継ぎの回数を減らしたりもした。その甲斐あってか、一般コースでは僕より速い人はいなくなっていた。
 練習時には一級の数名が、コーチの合図で十秒ごとにスタートすることが多く、つっかえないように、速い人から順番に泳ぐことが決まっていた。いつの頃からか、女の子が二番手に上がって来たなと思っていたら、メキメキと速くなり、練習でも僕の後ろから食らいつくように追ってきていたのが綾だった。そのお陰で発破をかけられ、僕も練習に身が入った。それは最後の練習になっても変わらず、お互い競い合い、励ましあった。
 練習が終わるといつものように早めに着替えをすまし、出入り口近くで柔軟体操をしていた。今日はいつもより早く、右肩をほぐしていると、綾が出てきた。綾は僕の正面でカバンから何かを取り出し、差し出した。ジップロックに入れられた本のようだった。
「これ。濡れたら困るから」
水着やタオルで濡れないように考えたのだろう。僕はそれを受け取った。
「詩集。ロマンス。たまには、わたしの事も思い出してよね」綾は目を細めて言った。
「あ、うん。何で、知ってるの?」
「女子には色んなネットワークがあるの」綾はいたずらっぽい笑みを浮かべたけど、声は出ていなかった。確か、誰かも同じようなことを言っていたと思い、記憶をたどった。そうだ、裕美だ。そういえば、詩集の話もしたかもなと思いだし、気持ちを伝えた方がいい、と言っていたのも裕美だったなと思い出した。綾に気持ちを伝えるかどうかは、この二か月ちょっと、ずっと考えていた。どうしたらいいのか分からなかったし、選択肢が狭められた中、どうしたいのかもわからないままだった。でも伝えるなら、今しかない。今が、ラストチャンスだ。僕は背筋を伸ばし、綾の瞳を見た。
「ありがとう。大事にする。あのさ」
僕たちの間に、数滴の雨粒が落ちてきた。
「オレ、綾の事、前から」
「いいの」綾は視線を僕のつま先に落とした。「知ってる。わたしもだから。てゆーか、わたしの方がもっと前からだし」綾の顔から笑みは消えていて、荒くなる息をゆっくり整えながら、眉と口を八の字にし、その瞳は助けを求めるように真っ直ぐ僕を見たかと思うと、すぐにまた下を向いた。そして大きく息を吸い込みながら向き直った。僕はその息遣いひとつひとつを、失くさない様にすくい上げて両手で包んだ。
「わたし、喜一より速くなるから。速くなって、有名になる。そしたら、」雨が降り始めた時のアスファルトの匂いが、なにか悲しい思い出を呼び起こすように、僕の中で震えた。
「そしたら、わたしの事、」綾は両手で顔を覆い、続けた。「忘れないよね」込み上げてくる何かを必死に抑えているように、少し震えた声だった。雲は、落とす雨粒を増やして、綾の小さな肩を濡らし始めた。
「忘れないよ。オレも有名になるから、忘れるな」
「うん」綾は下を向いたまま頷き、そのまま駐車場に向かって駆け出した。雨粒が白い斜線のように、綾を少しずつ霞ませた。
 綾のお母さんは車の外で傘をさして待っていて、綾を助手席に乗せると、こちらに向かって深くお辞儀をした。ぼくはびっくりして、それに倣った。
 卒業式の前日の事だった。

結んで開かず(十四)

 借りていた本を返しに図書室に来た。返却カウンターに座っていたのは、三学期に僕のクラスに転入してきた裕美だった。
「あ、図書委員だったの?」
「うん。先生に頼んでしてもらった」
「そうなんだ。あ、そういえば、今ちょっといいかな」
「うん?うん。誰も居ないし」
「裕美さ、K市から来たんだよね」
「うんうん」
「オレ卒業したら寿町に行くんだけど、どのへんだった?」
「へー、そうなんだ。じゃあ二中?」
「うん」
「わ、じゃあすごい近くだよ」
「お、まじ?なんかすごいね。入れ替わりみたいな」
「あは、そうだね」
「じゃあ友達とかどんな感じだった?」
「あー、うーん。そうだなぁ」裕美は目線を下げて、その口元は力が無く、辛うじて笑みを保っているように見え、前髪に隠れてしまった目は、影の中に逃げ込んだかのようだった。あまり過去の事を話したくないのだろうか。
「まぁ、行ってからのお楽しみだな。こっちにはもう慣れた?」
「うん。みんなやさしいし」
「だよね。オレも転校してきたんだけど、なんか、みんな会った瞬間友達、みたいな感じでびっくりするよね」
「うんうん。わかる。思ってたのと全然違くて。いい方にだけど。うーん、私を縛っているものは、観念なのだから、みたいな」あはっ
「あ、知ってる。それを一打のうちにときはなってくれる力を持つ。でしょ」
「わ、すごい。何で知ってるの?」
「いや、まぁ読んだことがあって」
「男子で珍しくない?」
「え、なんだよ。いいじゃん別に」無意識に口を尖らせてしまった。
「あは、うんうん、いいけど。じゃああれだね、噂の彼女に借りたのかなぁー?」
「え、なにそれ、いないよ」
「あれ、そうなの?五年生の女子と」
「あ、いや、付き合ってはないけど」
「はないけどぉー?」
「なんだよ、いいじゃん」
「告っちゃえー」あは
「なんでそうなるんだよ、いいだろ、うん、ほら、オレ居なくなるし」
「あー、気にしなくていいんじゃない?」
「そうなの?だって、ほら」
「んー、その子の事は知らないけど、言われたら嬉しいんじゃない?多分。よっぽど嫌いじゃない限り。うん」
「うーん、てか、噂って何?誰から?」
「あは、女子にはねー、ネットワークがあるんですー」
「なにそれ、怖えーな」
裕美があはっと笑うと、ガラガラと図書室の戸が開いて、本を持った女子が入って来た。
「あ、じゃあ、それ、返却しといて」
「うん、しとく」
僕は足早に図書室を出た。