結んで開かず(九)真一

冬休みが近付き、教室のロッカーに置いていたリコーダーや鍵盤ハーモニカ、習字道具などを小分けにして持って帰っている。家に帰っても母はいないから、ちょっと憂鬱だ。

母は僕が修学旅行の時に入院して手術した。乳癌だったらしい。ほどなく退院して、またスーパーで働いていたけど、今度はお腹の子宮ってとこに癌が見つかった。最初の時と違って、治療に時間がかかるらしく、体力面と精神面を考えて、母の実家がある隣の県の病院に入院した。隣といっても、海で五百キロも離れているから、心配だ。冬休みには、兄弟三人で母の実家に泊まりに行くことになっていた。

家の事はまだクラスで誰も知らない。盛隆先生はたぶん知っているだろうけど、みんなの前でも言わないでいてくれている。

その日家に帰ると、女の人の声が聞こえた。食卓で父とお酒を飲んでいた。知らない人だった。父は帰宅した僕を見つけ「挨拶せんか」と言った。形も声も父のものだったが、僕の知らない人だった。女の人は「いいのいいの。ごめんね、お邪魔して」と言って、僕の頭を触ろうと手を伸ばした。僕は反射的に身を引いて、その手を避けた。その日はすぐに帰ったようだったが、そのうち、家に泊まるようになった。

冬休みになり、母の病院を訪ねた。元気そうだったが、薄いニット帽を被っていた。病気になる前からニット帽は使っていたけど、襟足から延びる髪の毛が、今はない。僕は知っているんだ。それは、抗がん剤とか、放射線治療の副作用だ。つまり、手術では治らない癌なんだ。僕は、家に知らない女の人がいることを言うべきか迷ったが、元気に振る舞う母を見て、僕も心配させないために元気に振る舞おうと考えた。だけど、兄が、その話を、切り出した。母は、苦労かけてごめんなさいね、と謝った。「お母さんは、何も悪い事、してないじゃん」と言うと、母は手を伸ばし、僕の頭を撫でた。それは強く、やさしい、紛れもなく、母の手だった。

数日後、兄と美香と空地で野球をしていたら、母のお兄さんの真一さんがやって来て、そのまま隣町の真一さんの家に招かれた。真一さんはゴルフの練習場を営んでいて、家は三階建てで、地下室と屋上もある。この屋上で何度か、夏に近くで行われる花火大会を眺めたことがあった。僕たち三人は、居間の大きなテーブルに並んで座らされた。何か良くない話だというのは察しがついたが、内容はこうだった。三学期からは真一さんの家に住んで、近くの学校に通うこと。必要なことは全部真一さんがするので心配はいらない事。子供部屋にあるもの以外でこっちに持ってきたいものがある場合は、書き出して真一さんに渡す事。

僕は最近、兄の影響で野球に興味を持ち始めていた。観測会以来、綾との関係も急速に近くなってたし、このまま付き合えればなぁと思ってたし、甲子園常連の水産高校は家の近所だし、中学で野球部に入って上手くなって、水産高校に行って、兄弟で甲子園に出場して、一番に綾に報告して、それか、中学では水泳部に入るのもいいと思うし、そしたら僕が二年になったら綾と一緒に同じ水泳部で競い合って、メドレーで2分切って、オリンピック行くのもいいし、とにかく、僕には、思い描く未来があるんだ。
「友達も居るし、向こうでやりたいこともあるし、転校は、嫌だ」体の中で何かをねじりながら出した声は、掠れていた。
「もうすぐ中学生になるんだろ。もう大人なんだから聞き分けなさい」真一さんの声は、その性格と同じく、堅かった。

大人には夢をかなえる力があると思ってた。子供にはない力が。だから、早く大人になりたかった。だけど、大人だから諦めろという。じゃあ、夢は、いつ叶うのだろう。大人って、一体なんなのだろう。また勝手に転校とか決められて、散々子ども扱いされた挙句、大人なんだからって、一体僕は、なんなの?今の状況で父のもとに戻っても、母に心配かけるだけだって分かってる。でもみんなとこのままお別れなんて、出来るわけがない。

それから真一さんと何度か話し合った結果、兄と妹は、このまま真一さんのところに住み、僕は一度戻って、卒業してからこっちに来ることになった。それから母の見舞いに行き、結果を伝えて「わがまま言って、ごめんなさい」と言うと、母は僕の腕を掴み、引き寄せ、ハグをした。「いいの。お友達は大事にしなさい」生まれて初めての、そして最後のハグだった。

結んで開かず(八)綾

「では黒板に書いた班ごとに座り直してください」
十個に分かれた班の一つは、僕が班長だ。といっても、班員は一人だけだけど。黒板を見て、その名前を確認した。大津綾。六年生はみんな班長だから、五年生か四年生の女子だろう。僕の班に割り当てられた、視聴覚室の左後ろの席に向かった。

今日は天文クラブの観測会だ。転校してきて、クラブ活動をどれにするかというのは重大な問題でもあった。途中で変更もできないし、どんなに嫌いな人がいても、一年間我慢しなくちゃいけない。これが勝手に決められたクラブだと、諦めもつく部分があるけど、自分で決めたとなると、なんでこのクラブを選んでしまったのだろうと自分を呪い、後悔することになる。一週間に一度の四十五分間だけど、なるべくストレスになることは避けたい。今まで通り無難に将棋かな、とぼんやりクラブ一覧を眺めると、天文クラブに目が留まった。星座と、それにまつわる神話が好きだったからだ。元々は、星座をモチーフにした鎧を着るヒーローアニメから始まり、黄道十二星座北極星、明けの明星、宵の明星の金星など、さらにはポアンカレ予想にも興味は波及していた。好きな事を学べるなら、苦手な人が一人や二人いても気にならないだろうと思い、天文クラブに入った。

入って気づいたんだけど、顧問は放送委員会と同じ嘉納先生だった。これはついてる、と思った。知っている先生の方が安心できたし、嘉納先生は僕の好きな先生のひとりだったからだ。

クラブ活動初日、先生はみんなに春の星座はどんなのがあるか、と質問した。「おおぐま座」「そうだね」「かに座」「そうだね」「カシオペヤ」「カシオペヤのM字もまだ見えるね」「オリオン座」「オリオン座もまだ見えるけど、カシオペヤと同じで、冬の星座に入るね。先生はオリオン座を見ながらオリオンビールを飲むのが好きだけどね」先生が笑い、みんなも笑った。
「ところで、オリオン座は何で冬しか見えないか知ってる人いる?」みんなは少し上を向いて、星空を思い浮かべて考えているようだった。先生はその様子を見て「これには神話があってね」と続けた。「オリオンは美しく勇敢な戦士だったんだけど、小さなサソリに刺されて死んじゃったんだ。それ以来、さそり座が出る夏になると、オリオンは怖がって地球の反対側に逃げてしまうようになったんだ」それを聞いたみんなは目から鱗どころか、目から星座が飛び出るほど感嘆の声を上げた。この話で僕の心は鷲づかみにされて、次はどんな話を聞かせてもらえるのかとクラブの時間が待ち遠しくなった。時には先生の子供の話も聞いた。夜空に青白く輝く六連星のように、清澄に育ってほしいという意味で昴と名付けという話や、他にも様々な星座や星、超新星爆発ブラックホール、簡単な相対性理論や研究施設のセルンの話など、僕にとっては心と一緒に脳みそも踊りだしそうな話をたくさん聞かせてくれた。

そうやって先生の話に熱中するあまり、同じクラブ員の顔など、一人として覚えていなかった。だから、大津綾という名前を見ても、誰の顔も思い浮かぶはずなく、先に席に座っていたその顔を見ても、やっぱり初めて見る顔だと思った。それでも、4月からずっと同じクラブで、同じ活動をしてきたんだし、初めましては変かなと思い、「あ、どうも」と曖昧に頭を少し下げた。綾も「あ、どうも」と応え、イヒヒと少しいたずらっぽく笑った。そのしぐさが、とても幼く見えた。

観測会の今日は土曜日で、昼で下校し、それぞれ夕食をとった後に十九時に集合した。「では、一班から順番に屋上に上がって下さい。班長は、後ろの棚から望遠鏡を持って行ってください」嘉納先生が言い終わると、視聴覚室の右前に座っていた数人が立ち上がった。

僕は十班だから、教室をでるのは一番最後だ。順番が回ってくるまでの間、ほとんど初対面の下級生の女子と二人で待っているという、この時間の気まずさといったらなかった。何か話した方がいいのだろうかと、もやもやしているうちに、結局何も言わないまま屋上に上った。

それぞれの班が思い思いの場所で、二百倍の屈折式望遠鏡を組み立てていた。僕は人通りがあると嫌なので、出入り口から一番離れた場所に望遠鏡のハードケースを下し、膝をついて組み立てにかかった。
「手伝おっか」という綾の声に応えようとそちらを向くと、綾の顔が想像以上に近くにあって、びっくりして尻もちをついた。綾はイヒヒと笑った。二重瞼で切れ長のその目を見て、美雪を思いだしドキッとした。美雪の事は、彼氏もできたみたいだし、とうに諦めがついていたけど、どうやら僕は、切れ長の目が好きなのかなと思った。「びっくりした?」屋上に吹き降ろす秋の風が、綾の長い髪の毛をサラサラと洗った。幼いと思っていた女の子が、急に大人っぽく見えた。その合間に見え隠れした首元を見て、僕はあれ?と思った。
「もしかして、ラジオ体操一緒だった?」
「え、今更?」綾は、今度はフフフと笑った。僕はなにか悪いことしてしまったという気持ち半分と、恥ずかしさ半分で顔を赤くしながら「ん、ごめん」と小首を垂れた。
「いや、謝らなくていいけど」フフフ「じゃあもしかして、もう一か所、喜一君と会ってる場所あるけど、それも気付いてない?」
「もう一か所……」僕の行動範囲なんて知れたものだし、その狭い範囲のどこに居たのだろうかと記憶をたどってみるけど、思い当たらない。
「じゃあヒントね」綾は、なにか重大な秘密を打ち明けるように、僕の耳元で「火曜と金曜」と囁いた。
「あっ……え、うそ、スイミング?」
「ポンピーン!」綾は無くなっちゃうんじゃないかと思うくらい目を細めて笑った。
「え、あの速い子だよね」
「喜一君よりは遅いけどね」

僕は僕が認識している人のことしか考えられなかったけど、意識していない人達にだってそれぞれの暮らしがあって、夢があって、そして、生きているんだ。僕が見ている世界意外にも、人それぞれ見ている世界があって、人の数だけ世界がある。それがこうやって、所々で交わることなんて、奇跡に近い事なんじゃないだろうか、と大きなことを考えてみたりもした。
「何でもっと早く教えてくれなかったの」
「知ってると思ってた」綾はまだ笑い足りないらしく、クククと息を漏らし、続けた。「気付くでしょ、普通」
「いやぁ、まぁ、髪型も違うし」
「スイミングの時はお団子にしてるからね」綾は何度か手櫛を入れながら言った。その仕草は大人がするやつじゃん、とドキドキしながら、細くてさらさらと揺れる髪の毛を見て、触ったら気持ちよさそうだとしばらく見とれてしまった。
「あ、ほら、組み立てよ」綾は少し照れたように三脚を手に取った。「喜一君は、育成コース行かないの?」
「あ、うん。うち、お金ないから」
「そっかぁ。一番速いのにね」
「まぁ、しょうがないよね」
「卒業するまでは続けるんでしょ?」

卒業と言う言葉が、僕の頭を鐘みたいに、ゴーンと叩いた。そうか、もうすぐ二学期も終わって、三学期も三か月で終わって、僕は中学生になるのか。早く大人になりたいと気持ちは急くけど、まだ今のままで居たいなんて想いもある。
「そうだね。もっと速くなりたいしね」
二人で望遠鏡を組み立てながら、綾が小さく「よかった」と言ったのを聞いた。

僕は初めて土星を見た。土星の環は隕石などが集まってできていると聞いていたので、ぼやけて光っているのかと想像していたけど、くっきりと、白く、光っていた。僕は綾と代わるがわる、何度もレンズを覗きこんだ。

 

結んで開かず(七)美雪

放送委員会の登下校時の全体放送は二人一組で行うことになっている。ペアはくじ引きで決められ、僕の相手は一学期に引き続きあかねになった。あかねは明るく活発な女子だった。顔の作りが一つ一つはっきりしていて、その口を大きく開けて笑う姿は関根勤を思わせた。面倒見がよくて、僕の最初の登校時の全体放送のとき、スイッチを押す順番や、聞き取りやすくするためのアクセントの場所など教えてくれた。なぜそんなに詳しいのかと聞くと、一学期と二学期は六年生だけだけど、三学期は五年生からも希望者が放送委員になって、その時に引継ぎのようなことをするのだと、これまた丁寧に教えてくれた。あかねからもよく話しかけてくれて、歌番組に出演した好きなアイドルの話とか、自身が所属している女子バスケ部の話とかしてくれた。中でも僕が一番興味を持ったのは、あかねが女バスの中で一番仲が良いと言う美雪の話だった。

美雪は僕と同じクラスで、すらりと背が高く、小さな顔は切れ長の二重の目が印象的なモデルみたいな女子だった。クラスの中ではそんなに目立つ方ではなく、少し控えめなところと日に焼けた肌が、容姿からくる近寄り難さを中和してくれていた。あかねを真昼の太陽だとすると、美雪は温かい陽だまりのような雰囲気だった。あかねが話してくれる美雪の誕生日会に家に行った話や、部活の休憩時間に美雪が水筒を忘れて二人でポカリを分け合った話を聞いているうちに、僕の中の美雪の像が形作られ、それを完成させたいと思うようになった。つまり、美雪の事をもっと知りたいと思った。

クラスの話し合いの時には、美雪がどんな事を考えているのかと、その発言に注目し、何人かで企画された怖い話大会に美雪が行くというのを知れば、話せるような怖い話もないくせに参加し、修学旅行の実行委員に美雪が手を挙げれば、僕も手を挙げた。

ちょうどその頃、周りでは誰が誰の事を好きだとか、誰と誰が付き合っているという話が飛び交っていた。僕は付き合うという事が何を意味するのか知らず、あかねに聞いてみた。「うぅん」あかねには珍しく、何か言いにくそうな感じだったけど、「あ」と閃いたように「両想いになるって事だよ」と教えてくれた。なるほど両想いか。確かに僕が美雪の事を知りたいように、美雪にも僕の事を知りたいと思ってもらえたら、それは嬉しい事だなと納得した。

修学旅行の前日、実行委員の数人が放課後集まり、栞の作成の仕上げを行った。僕は美雪と昇と一緒に、移動中にバスの中でみんなで歌う楽曲の歌詞を書いた。美雪の左利き特融のクセがあり、それでいて綺麗でシャープな文字に惚れ惚れした。細くて長い整った指から美しい文字が生み出される光景を見て、圧倒的な大自然の荘厳さを想い、この旅行で見ることになるであろう屋久杉をそこに重ねてうっとりとした。

その美雪の文字に、昇の可愛らしいイラストが加えられ、中々にいい出来になった。作業中にも、旅行中の自由時間に誰と誰が会う約束をしているらしいという噂が話題にのぼった。僕の隣で文字を書く美雪を見た。美雪は誰かと約束しているのだろうか。もしいなかったら、その相手は僕になる可能性はあるんだろうか、とやきもきしたりした。

その日までに作成していた旅行の工程表や、観光場所の情報、班割りなどをコピーして巨大なホチキスでとめ、その場所に色付きのガムテープを張った。これらの作業を先生の指示なく、しかも滞りなくこなすクラスメイト達がとても大人に見えた。その想いは転入早々からあった。

始業式から数日経ったHRで六年六組の歌を作ろうという事になった。テキパキとクラスをまとめる尾関や、音楽室のピアノを使って作曲する詩織や、みんなの好きな言葉をまとめて歌詞を綴った美里など、このクラスは色んな才能を持った人たちの集まりなのかと驚かされた。一方自分の事を顧みれば、みんなと比べて何一つとして秀でたものもなく、それどころか全てが劣っているように見える事実に、劣等感を抱くことさえできなかった。それが秋博の一件で、一歩みんなに近づけた気がした。勇気を出さなきゃいけない瞬間に、立ち上がり一歩前に出るんだ。それだけの事だけど、その数の分だけ、みんなに近づける気がする。その積み重ねの上に立っているから、みんな堂々と屈託なく笑えるんじゃないかと思う。僕もみんなと同じ所で、みんなと笑いあいたかった。その為には、勇気を出さなきゃいけない瞬間に、立ち上がり一歩前に出るんだ、と自分に言い聞かせた。

栞の作成が終わって下校する前、「ちょっと話があるんだけど」と美雪に切り出した。「あ、うん。じゃあ外の体育倉庫の前でいい?」美雪はまるで、僕に話しかけられるのが分かっていたかのように、すぐに答えた。

外の体育倉庫とは、校舎と校庭の間にある体育倉庫で、校庭側は大きな二つの引き戸で閉じられている。校舎側は階段になっていて屋上の国旗掲揚台に上れるようになっていた。美雪は、その階段に座って待っていた。僕はその隣に腰かけて美雪を見た。美雪もこちらを見返す。僕は視線をそらし校舎の方向を見る。呼び出しておいて、これは何だ。だらしない。自分を奮起させ、もう一度美雪を見た。美雪もこちらを見返す。美雪は何も言わず、待ってくれている。こういう時は、とにかく一言何か言うんだ。何か言ったら、続きを言わなきゃならなくなる。「あのさ」美雪の二重の目を見る。「ん」と言う美雪の長いマツゲが揺れる。目をそらそうとする自分を、次の一言を言えと急かす。「僕と・・・好きです、僕と付き合ってください」「ごめんなさい、他に好きな人がいます」それだけ言うと、美雪は校門に向かって駆けだした。僕が告白するのが分かっていたのだろうか、間髪入れずの答えだった。あまりの呆気なさに、何が起きたのか分からないような、分かりたくないような、思考を停止させながら美雪を眼で追った。暮れなずむ校門に向かって、美雪は走って行く。僕から離れて行く。そうか、ふられたのか。悲しくも悔しくもなく、ただそう思った。やがて美雪が見えなくなり、誰も居なくなった視線の先を、しばらくの間見るともなく、動けずにいた。

家に帰ると、父はすでにお酒を飲んでいた。まずいなぁと思った。屋久杉まで歩く間に様々な鳥や動物がみられるかもしれなかったので、父の双眼鏡を借りようと思っていたからだ。ご飯を食べる間、特に機嫌が悪いようには見えなかったので「双眼鏡貸してほしいんだけど」と聞いてみた。「何で」父の声は低く、尖っていた。理由を言うと、父は陶器の灰皿に手をかけた。咄嗟に母が僕をかばうように覆いかぶさった。「馬鹿が!」と言いながら父が放った灰皿は、母の背中に当たって中身を蒔きながら転がった。「子供が扱えるような安もんじゃない!」その父の言葉からも、母は僕を守ろうとしているようだった。僕なら大丈夫だよと、母を押しのけようとした。母は小さく数回首を横に振ると、あの優しい目で僕を子供部屋に促し、押し込んだ。

僕は何をされようと、覚悟はできてたんだ。体操座りで足の間に頭を入れて、膝で耳を挟んで部屋の外の言い争いがなるべく聞こえないようにした。もう一度父に向って行こうと思ったけどやめた。僕が殴られるのはいいけど、母が殴られるかもしれないと考えると、動けなかった。神様なんて信じてなかったけど、止めてくれ、終わってくれと祈るしかなかった。何かわからないものに祈り続けた。

次の朝起きると、いつもより早い時間の出発なのに、母はご飯を作ってくれていた。僕がご飯を食べ終わると、母が双眼鏡を食卓に置いた。「持って行きなさい」「大丈夫だよ。視力いいから。遠くても見えるし」それに、僕がいない間に父を怒らせるわけにはいかなかった。父が怒るのが分かっていながら、一人だけ旅行を楽しめるわけもなかった。「ごめんなさいね、一生に一度の事なのにね、気持ちよく行ってきてね」母の優しいその目は、涙で濡れていた。僕は母の涙を初めて見た。何か悪いことをしてしまったような気がして「大丈夫だよ。いってきます」となるべく明るく言って、早々に家を出た。

母は確かに泣いていた。僕は母のいつも優しい目を思いだした。内職を手伝おうと僕が言った時、大丈夫だからと言った優しい目と、秋博の家に謝りに行った帰りの嬉しそうな優しい目と、昨日僕をかばってくれた優しい目を思いだした。それが今日、泣いていた。これからは僕が守らなきゃと思ったとき、僕は気付いたんだ。母の優しい目、それは強さなんじゃないかって。優しくするためには、守るためには、強さが必要なんだ。昨日は美雪に振られて、今日は母の涙を見て、頭の中はぐちゃぐちゃだったけど、強く、強くなりたいと思った。早く、大人になりたい。僕は集合場所の校庭に向かって、思いっきり走った。走った分だけ、早く大人に近付けるような気がした。

バスの中で僕はみんなと一緒に「情熱の薔薇」を歌っていた。ちょうどその頃、母が倒れたのも知らずに。

結んで開かず(六)ヒロト

まだ午前中なのに高く上った太陽は、僕たちのうなじを焦がしている。「次はこの信号まででいい?」と靖が折りたたんだ地図を指さした。「さっきアイスクリン見た?」Tシャツの襟をつまみ、パタパタしながら和東が言う。閑散とした国道沿いに止まっていた移動販売車の事だろう。「見た見た。百五十円って書いてあったね」僕はリュックから取り出したタオルに顔をうずめながら答えた。「今度あったら止まろうよ」「いいね」「じゃあ、一応この信号までで、アイスクリンがあったら止まろっか」靖が改めて地図を指し、僕たちの真ん中に差し出した。僕と和東はうんうん頷き、「オッケー」と息を切らせながら答えた。水筒からキャップに注いだ麦茶と、今にも溶けだしそうなアスファルトの匂い、噴き出す汗が染み込んで少し重くなったTシャツが、冒険の色を濃くさせる。

夏休みに入る前に、各委員会で集まる時間があった。一学期の活動内容を振り返り、反省点などをまとめ、二学期の活動目標、やってみたいことを話し合った。あの時は涙を流したルミも、以前と変わらずよく笑い、僕たちにも明るく話しかけてくれた。委員会が終わって教室に帰る廊下で、夏休みも何かして遊ばないか、と靖が提案してきた。それから夏休みに入るまで、お互いの教室を行き来して、どこで遊ぶか、何をするかを話し合った結果、ひめゆりの塔まで自転車で行ってみようということになった。日帰りのサイクリングだけど、夏休みに友達と約束して遊ぶことや、子供だけで遠出することも初めてだった僕にとっては、ちょっとした冒険に踏み出すような気持だった。日取りや時間を決めて、集合場所は僕の家のアパートの駐車場ということになった。
近所に六年生が僕だけだったので、必然的に朝のラジオ体操が終わると、みんなのカードにハンコを押す係は僕だった。ハンコをインクにポンポンと叩く作業が、なんとなく大人になった気分がして好きだった。僕がハンコとインクを持って立つと、その前にみんなが並び、インクのふたの上にカードを置き、ハンコを押していく。そのとき必ず「おはよ」と言ってカードを置いて、ハンコを押すと「ありがと」という女の子がいた。いつも長い黒髪をポニーテールにしていて、後れ毛が張り付く首元がちょっと大人っぽく見えた。
ラジオ体操が終わると家に帰ってご飯を食べ、駐車場におりると、すでに靖と和東は集まっていた。二人の自転車は新品でピカピカだった。僕のは兄からの借り物で、所々錆びついていた。でも不思議と、見劣りなどは感じなかった。この僕が、今の僕なんだ。それも全部含めて一緒に冒険をしてくれる靖と和東がいる。それ以上何かを望んだら、罰が当たる。「ごめん、待った?」「んーん、俺も靖も今来たとこ」「今和東と話してたんだけど、最初の休憩地点はこの信号らへんにしよっか」「オッケー」「じゃ、いこっか」「うん」すでに気温が上がり始めている夏の空気を吸い込み、ペダルを踏んだ。

先頭を走る靖が、信号の手前で自転車を降りた。何度目かの休憩地点だ。僕も通行の邪魔にならないように自転車を止めた。途端に汗が噴き出す。最初は晴れてよかったと思っていた天気も、こう暑くては雨でも降ってくれた方がましだと思った。干上がった喉に流し込む冷たい麦茶は食道を冷やして、胃に落ちた。喉元過ぎれば熱さを忘れるというけど、冷たさは忘れないでほしい。このままずっと冷たければいいのにと思った。タオルで汗を拭きながら和東に近寄り「アイスクリンなかったね」と声をかけた。「うん、残念。あとどんくらい?」二人で靖を見る。「今五分の四くらい。もうすぐだよ」「おぉすごい、小学生記録なんじゃない?」こめかみを伝う汗を肩で受け止めながら和東が笑う。

「おまえら何年生?」はじめは僕たちに話しかけているとは気づかず、麦茶を飲んでいた。「無視するんか」と言われ振り返ると、中学生くらいの日焼けした四人組がいた。「六年生です」靖が答えた。「ふぅん、ちょっと話しようや。ついてこい」と一人が歩き出した。靖と和東はためらいながら後に続いた。え、ちょっと、行くの?こういうのついて行ったらだめなんじゃないの?「ちょっと待って」と二人を止めようとした。すると「いいからついてこいや」と残りの二人に両側から腕を持たれて、なすすべなく男たちと一緒に歩いた。歩道から獣道に入り、右に曲がるとすぐ十段くらいの階段を上ると、ちょっと開けた場所に墓石が四つ並んでいた。そこに僕たち三人並んで立たされ、男たちは階段を背にこちらを囲むように立った。逃げ道はない、と悟った。どこから来た、誰と来た、何人で来たという男の質問に靖は丁寧に答えた。僕は「答えなくていい」と男を見ながら言った。すると行く手を阻んでいた男が、僕の首の後ろに手をまわし「お前さっきから生意気だな」と、もう片方の手で僕の腹を殴った。僕は息ができなくなり、かはっと声をもらし身を屈めた。男はさらに、僕の背中を踏むように蹴った。僕は地面に突っ伏し、痛さと苦しさで動けなかった。男は僕のポケットを探って、財布を取り出し、中身を確認した。お札だと汗で濡れて使えなくなったら困るからと、母がくれた千円分の小銭が入っていた。お昼代にとくれたおこずかいだ。母が毎日働いたお金だ。こいつらに渡すわけにはいかない。僕は男の太ももにしがみつき、立ち上がり、そのまま持ち上げて転ばそうと力を入れたが、男はびくともしなかった。別の男に引きはがされ、地面に投げられた。「百円だけは残しといてやる」と言って中身を取り出し、うつ伏せに倒れている僕の背中に財布を投げた。「お前らも財布出せ」靖も和東もお金を取られたみたいだった。そうか、これがカツアゲというやつか。土の味を覚えながら、妙に納得した。痛みをこらえてようやく立ち上がったときには男たちは居なくなっていた。自転車の所に戻っても姿は見えなかった。「どうする」和東が心配そうな顔をこちらに向けて言った。「行こう」僕は答えた。このまま目的も果たさずに帰ったら、負けっぱなしのような気がした。

街路樹の影が伸びて、いくらか涼しくなった帰り道、二人は「あそこでジャンピング頭突きしてやれば勝てたかもね」と笑っていた。なんで笑えるんだろう、と思った。あの男たちの事も、人を殴ってまでお金を取るなんて、何でそんなことができるんだろう、と不思議だった。家に帰れば、必ず母に楽しかった?ときかれるだろう。あった事をそのまま言うと、心配するだろうな。僕が楽しめるようにと渡してくれたお金を取られたと言うと、悲しむだろう。大きな嘘は言い続けたらホントになるってヒロトは歌ってた。母を心配させないためにつく小さな嘘はだめなのかな。教えてよ、ヒロト

 

結んで開かず(五)美香

真上から照りつける太陽は、波で濡れた砂もすぐ乾いてしまうんじゃないかと思うくらい、近くに感じられた。ウッチャンナンチャンに会える!とはしゃぐ妹の美香と、その友達何人かを見て「若いなぁ」と独り言ち、パラソルの影で水筒の麦茶を飲んでいた。「十二歳の言うことね」と母が笑う。

美香の友達がウッチャンナンチャンの番組に応募して見事当選し、コーナーに三人組での出場権を得たらしく、それで美香にもお声がかかったということだった。母は、スーパーの仕事が休みの時は農家の手伝いに行っていた。時々、傷んだり曲がりすぎたりして商品にならないインゲンを大量に家に持ち帰ってきていた。お陰で、ほとんど毎日インゲンが食卓に上った。今日もどちらかの仕事だったと思うけど、たぶん美香のために休んできたんだろう。兄は、野球部の練習で来れないとのことだった。父は知らないが、来ていない。場所は観光ホテルのビーチで、手入れが行き届いていてごみ一つなく、海は透明度の高い薄いブルーで、僕も少し、テンションが上がっていた。

美香たち三人は何をするのかというと、海に浮かべた土俵の上で、相手チームとの三対三で靴下の脱がしあいをするというゲームらしい。そしてそれに勝ったら、なんと、東京に行けるという話だった。僕が行けるわけではないが、それでも、もしかしたら美香が東京に行けるかもしれない、となると普段あまり話もしないけど、少しくらいは応援してあげようかと思った。撮影までの時間、僕と母はパラソルの下に避難した。美香は友達と何やらひそひそ話をしていると思いきや、いきなりみんなで笑いだしたり、鬼ごっこをしているのか分からないけど、三人向かい合って、サッカーのフェイントのように体を左右に揺らして、弾けるように笑っている。そうか、美香にも友達ができたのかと、安心とも焦りともつかない想いが胸で膨張する。美香は美香で、引越しの時に別れを経験しているだろうし、つらい思いもしただろう。それでも今は、あの小さな足で、ちゃんと歩いているんだなと、尊敬にも似た思いがこみ上げてくる。三人が駆けていく先を見ると、ウッチャンナンチャンの二人がホテルから出てきたところだった。ナンチャンは浜辺でモニターの前に立ち、ウッチャンは相撲の行司の恰好をして海に浮かんだ土俵にのぼった。対戦は一人ずつ行われるらしく、二人の女の子が遅れて土俵にのぼる。二人を向い合せ、緊張した面持ちで「はっけよぃのこった!・・と言ったら始めるんだよ」と言って場を和ませたウッチャンは、そのまま足を滑らせて豪快に海に落ちて行き、出場者と観覧のみんなを沸かせた。結果は一勝二敗で負けてしまった。最後にウッチャンに「悔しかった?」と聞かれた美香の友達は、不機嫌そうに「別にぃ」と答えてみんなを笑わせた。

結んで開かず(四)ルミ

早く帰れる家庭訪問の週が終わった土曜日の放課後、放送委員の全員が放送室に呼び出された。呼び出したのは顧問の嘉納先生で、縁なしメガネの奥にある目はいつになく厳しかった。

僕が放送委員に入ったのは、他に手を挙げる人がいなかったからだ。やりたい人が全員なれるわけなく、規定の人数よりやりたい人が多い場合は、じゃんけんで決める。それが嫌だった。負ければまだいいけど、あわよくば勝ってしまったら、負けてしまった人の「やりたかった」という気持ちを僕の中でどう消化していいのかわからない。たとえやりたいことがあっても、他にやりたい人がいたら譲る。その結果、活動内容も知らない放送委員になった。そしてたじろいだ。

放送委員の仕事は登下校時の全体放送、給食時のテレビ放送、全校朝礼のマイクや機材の準備と、めちゃめちゃ目立つ活動だったからだ。勇気とか度胸とかそんなの関係ない、なってしまった以上、やるしかない、と腹をくくった最初の登校時の全体放送は「みなはん、おはようございま、オェ、今日は〇月〇にち、オェ」と嗚咽交じりのひどいものだった。それを全校児童が聞いているのかと思うと全身からボッと火がたつ恥ずかしさだった。その作業を、大人のようなスムーズさでこなす他の委員を見て、気おくれしつつ、カッコいい放送室に心を躍らせた。

畳一枚ほどの大きさの沢山のスイッチが並ぶミキサー、大きなガラス張りの隣の部屋の撮影スタジオのようなブース。テレビカメラ2台がキャスターに乗せられていて、キャスターには自転車のようなハンドルがついている。そのハンドル部分で、ズームやピント合わせができるようになっていた。それらを使うことができるのにワクワクしない男子なんかいないだろう。

放送委員は六年生の各クラスから一人ずつの、全部で六人だった。クラスのみんなと同様に、委員の六人も明るく朗らかに接してくれた。委員が決まってあいさつのためみんなが最初にスタジオに集められた時、顧問の嘉納先生は何やらカメラのコードを調べているようだった。その手を一瞬止めて、ひと呼吸してこちらに顔をあげ「そんなバナナ」と真顔でつぶやいた。僕たち六人は腹を抱えて笑った。それだけでみんなと分かり合えたような気分になった。

放送委員は放課後放送室に集まるように、という嘉納先生の放送を聞き、僕が放送室に入ると、他の五人はすでに集まっていた。ただ室内は今までに感じたことのない雰囲気だった。ルミがミキサーの前で座り込み、泣いていた。その両側であかねと香織がルミの肩を抱き、慰めているようだった。その隣に嘉納先生が立ち、それに向かい合うように入口近くで靖と和東が少し俯いて立っていた。僕はどうしていいのか分からず、とりあえず男子側に二人と同じように立った。ルミは普段から明るくてよく笑う女子だったから、そこからは想像できない泣いている姿を見て、なにか女子の見てはいけない一面をのぞいたような気がして、不謹慎ながらドキッとしてしまい、同時に罪悪感が湧き出した。
「喜一はまだなんで呼ばれたか分かっていないと思うから説明すると・・」嘉納先生が言うにはこうだった。金曜日の給食時間に、その週に学校であったことをまとめて、校内ニュースとしてテレビ放送をしていた。そのキャスターをルミが勤めていた。僕とあかねと香織が照明や撮影、マイクの音量などを担当し、靖と和東が映像の編集担当だった。編集機材も充実していて、キャプチャーで画像を切り取ったり、テロップを入れたりして、放送の評判もよかった。そこまでなら何も問題なかったのだけど、靖と和東が編集機器を使って色々試して遊んでいたらしい。そして、ルミがニュースを読んでいる画像を切り取り、そこから腕や頭を切り離して宙にフワフワ浮いているようにして遊んでいたところに、ルミが部屋に入ってきて、それを見て泣き出したということだった。
「自分が同じようなことをされたらどう思う?」と嘉納先生が人差し指で眼鏡を上げながら言った。

どう思うと言われても、僕だったら、そんなこともできるんだ!と一緒に騒いだと思う。だけど、ルミは泣いている。なぜだろう。もしかして、ルミはいじめられてると思ったのかなと考えた。それで悲しくなったのかなと。ルミが泣いているのは違う理由なのかもしれないけど、男子と女子で受け取り方がまるで変わるということを知った。

男子にとって何ができるのか未知の機械は宝の塊だけど、女子にとってはそれだけでは済まされない事もあるあるのだなという驚きと納得で、世紀の大発見を知らされたような気持ちだった。それにしてもルミ可愛かったなと浮かび、それをかき消すように自分の頭にゲンコツをした。

帰りに近所のスーパーに寄った。この店でレジ打ちをすることになった母の所に行き、食券をもらった。「美香もいるから、一緒に帰ってやって」「うん」と後ろ目に返事をした。一緒に帰ってって言ったって、家はすぐそこじゃん、と思いながらソーキそばをすすった。食べ終わると、美香の分の食器と重ねて、返却口に持って行った。「おいしかったね?」と返却口の向こう側から食堂のおばちゃんが話しかけてきた。「うん、ごちそうさまでした」「妹の面倒見て、えらいねぇ」と言われたけど、向かいの家に一緒に帰ることぐらいでそう言われるのが恥ずかしくなり、美香を連れて店を出た。製糖工場の匂いにむせながら、後ろからついてくる美香をチラリと振り返り、そういえば、美香も女子なのかと思うと、見慣れたその姿が、僕の知らないもののように思えて、思わず少し距離を取った。

 

 

 

結んで開かず(三ー三)秋博


 仲の良い輪の中に入るのは難しい。でもクラスのみんなは僕に対しても昔からの友達のように接してくれる。その気持ちに答えなきゃとは思うものの、やり方が分からないし、先の事を考えるとしり込みしてしまう。

給食の時間、班を作って向かいに座っている昇が「喜一って時々悲しそうな眼をするよね」とコッペパンを千切りながら言った。「そうなの、知らなかった」「うんうん、今度その絵を描いてあげよっか」昇は絵が上手で、クラスの張り出し物の隅に、よく小人のイラストを描いていた。「志村けんのものまねしてるところ描いてよ」「いや、それだと喜一じゃなくて志村の絵じゃん」と笑った。そうか、眼か。気を付けよう。友達を作ろうという考えには及ばなかったけど、朗らかに接してくれるみんなに応えようとは思った。そうやって一つ一つ覚えていこう。何を何のためになんて分からないけど、そうすべきだと思った。

始業式から数週間経った下校時、たまたま浩哉と秋博、学級委員長の尾関と僕が同時に下駄箱で靴に履き替えた。なんとなく四人で校門まで歩いていると、校庭の隅にソフトボールが一つ転がっているのを浩哉が見つけた。たぶん体力測定で使って忘れたんだろうとみんなで話していると、浩哉がそれを持って走りだし「鬼ごっこしようぜ」と言った。何かをするとき、みんなでの話し合いの時もそうだけど、第一声をあげるのはいつも浩哉だった。鬼ごっこって、ボールをどうするの。と思っていると秋博と尾関が走り出し、尾関が浩哉を捕まえて、秋博がボールを奪った。みんな笑って息を上げながら「喜一」と秋博がこちらにボールを転がした。僕は焦った。何、ボールを持って逃げるの?どうするの?と思いながらボールを拾うと、反対を向いて走った。後ろから秋博が笑いながら追いかけてきているのが分かった。走って、そのあとどうするの?と思いながら、肩口から後ろにポロっとボールを落とした。すぐに秋博の「痛っ」という声が聞こえた。走るのを止めて振り返ると、秋博が口元を両手で抑えて身を屈めていた。何がどうなったのか理解できず、秋博に近づき「ごめん」と言った。秋博は「痛ってぇ歯が欠けた」と片目をぎゅっとつぶって、痛みに耐えているようだった。尾関が「先生に言ってくる」と校舎に向かって走った。「何でこんなことするんだ」と浩哉が言った。僕は何も言えず、西日に照らされるソフトボールをじっと見ていた。

家に帰ると玄関で母が待っていた。「先生から聞いた。わざとやったの?」僕は反射的に首を振り「そんなことしない」と言った。「誤りに行くからランドセル置いてきなさい」怒っているというより、たしなめるような言い方だった。

秋博の家は二階建ての一軒家だった。同じ学校の同じクラスなのに、住んでいるところはこんなにも違うのかと、この違いは一体何なんだと、答えを知りたくない大きな疑問符で頭をフルスイングされた気分だった。
「うちの子が申し訳ありませんでした」と母が頭を下げた。「ごめんなさい」と僕も頭を下げた。秋博のお母さんは「いえいえ、こちらこそごめんなさいね。歯も欠けてないですから大丈夫ですよ。ボールが当たっただけで騒いですみませんね」と隣に立っている秋博の頭に手をのせた。そうか、欠けてなかったのか。よかった。「また遊んでね」と秋博が言い「うん」と僕も頷いた。
帰りに歩きながら「怪我しない程度に、思いっきり遊びなさい」と母が言った。「怪我してなかったよ」と僕が言うと「そうだね」フフフと笑った。怒られると思っていたので意外で不思議だった。

次の日学校に行くと、一時間目から話し合いだった。題材は僕。「なんでそうなったのか、同じことをしないためにはどうしたらいいか、話し合いなさい」
「わざとじゃないと思う」「後ろに投げたら当たるってわかるよ普通」「当てようと思ってないけどたまたま当たったんじゃないかな」・・・
そして浩哉が言った。「喜一はどう思ってるの」
僕は何を何て言っていいか分からず、浩哉から目をそらし、絨毯を見つめた。だめだ。逃げちゃだめだ。ちゃんと、言いたいことを言うんだ。僕は立ち上がり、秋博の方に体を向けて頭を下げた。「ごめんなさい。鬼ごっことかしたことなくて、もっと後ろにいると思って、僕がボール落としたらびっくりするかなと思って、笑うかなと思って、そしたらすぐ近くにいて、ボールが当たって、ごめんなさい」膝がガクガク震えた。膝って本当に震えるんだとびっくりした。震えてるのがみんなにばれたらカッコ悪いと思い、こらえようとしたけど止まらなかった。秋博も立ち上がり、僕を見た。「大丈夫だよ。怪我もしてないし。わざとじゃないってわかったから。」僕の視界は、眼にたまった涙で歪んでいた。僕は膝を震わせながら泣きそうになっていた。こんなのだめだ、カッコ悪すぎる。涙がこぼれる前に後ろを向いて袖で目元をぬぐった。「もう大丈夫だね、二人とも座って」と尾関が言った。「じゃあ次は、同じようなことにならないためには、どうしたらいいか。意見がある人」

仲の良い輪の中に入るのは大変だ。遊び方も知らないんだから。一つ一つ覚えて行こう。そうすべきだから。そうしたいから。