BLACK PEPPER(2)

「ほら、よく言うだろ」アサは愉快そうに煙草の灰を落とした。はぁ。僕はアサが何を話し出すのか、思案を巡らせる。

インディアンサマーは昼寝しろって」アサは得意げに煙草の煙を吸い込む。いや、聞いたことない。

「それはあなたの願望」と横に座っていたイセが笑う。子供を見守る母親のようだ。アサは煙草の煙で輪っかを作るのに夢中になっている。この男が「本当にボスなのか。と思ったでしょ」とイセが僕の考えを継いで言う。「適当なのよ。基本」とまた笑う。

「やる時やりゃあいいんだよ」

「いつも適当じゃん」

「まだやる時が来てないだけだ」笑いながら煙草をガラスの灰皿に押し付ける。その屈託のない表情は、やはりボスとしての風格も威厳も貫禄もない。あるのは、しいて言えば自由か。

「アサさん、マルコがきてるぜ」ノックの返事を待たずに開いたドアから顔を覗かせたのはゼロだ。

「ああ、通していいよ」

「そう言うと思ってもう連れてきてる」ドアを手で押さえているゼロの前を男がするりと入って来た。痩身だが鍛えた胸筋がボタンダウンの上からでも分かる。この男がマルコか。

「マルコ、牧場を任せることになったサチだ。サチ、こいつ、マルコ」アサが紹介してくれる。

「噂は聞いてる」僕は手を差し出す。

「噂になるほど何かを成しちゃいない」マルコが握手に応える。その感触はやはり、鍛えられてそうだ。

 

BLACK PEPPER(1)

僕はウィスキーが入ったグラスを持て余していた。ステージではビキニの衣装で飾った女が豚を連れて登場したところだった。グリーンランドから連れてきたという触れ込みのその豚は首輪を付けられてはいたが、人に慣れているらしく女が歩く方向に抵抗もせず後を追っている。店にいる人間はだれ一人としてステージなど見ていなかったが、女は笑顔を振りまいていた。

僕はグラスを口につけ、ほんの少し傾けた。上等な酒はみんな高級クラブかサロンが買占めるため、このようなスピークイージーではアルコールに色がついただけの、およそ酒とは言い難い飲み物が出される。牧場農夫の募集にこの店を待ち合わせ場所に選ぶとは、一体どういう人物なのか。スタンディングのカウンターに肩ひじをついてステージを見ていたため隣に女がいる事に気付かなかった。そしてその女が雇い主だという事も。

「ミスターサチ?」

振り向きながら相手にそれと判らない様に身なりを確認する。すらりと背の高いスーツ姿の女だ。綺麗に梳かれた髪は、埃とアルコールと湿った木材と僅かな豚の匂いで満たされたこの空間には似合わない艶やかさだった。僕は相手が分かるであろう最小限の動きで頷いた。

大切なこと(でもかんたんなこと)

こんにちは(おはよう?それともこんばんは?)

お元気ですか?わたしは元気です。

とつぜんですが、今日は一つ、大切なお話をしたいと思います。

でも安心してください。かんたんなことです。

あなたはこれからたくさんのマンガや本を読むことになると思います。

そしてたくさんの絵を見るでしょう。

たくさんの動物や植物を知るでしょう。

たくさんの人と出会うことでしょう。

その中で自分の考え方がひっくり返ることもあると思います。

そのとき、すごくこわくなるかもしれません。

でもだいじょうぶです。

あなたのことはわたしが見ています。

だから、自分がやりたいと思ったことをやりましょう。

でも、ちょっとでもやってはいけないと思うことはしないこと。

それだけで、心のもやもやがなくなります。

それを、信念(しんねん)といいます。

ひとことで言うと

自分が正しいと思ったことをやる。

ね、かんたんでしょう?

 

 

結んで開かず(完)喜一6

二中には入学というかたちだったけど、引っ越してきたばかりなので中身は転入とおなじだった。入学式が終わりそれぞれの教室に入る時も、小学校からの友達なのだろう、仲の良いもの同士、何組かに固まっていた。先生が入ってきてHRが始まり、「春休みの思い出や中学での目標なども含めて自己紹介していきましょう」ということになった。

出席番号順に座っているその場で立ち上がり、一人一人発言する度に周りから笑いが起きたり、はやし立てたり、ヤジが飛んだりした。僕は全員と初対面なので、その雰囲気に乗ることはできなかったけど、その中で一人だけ、気になる生徒がいた。これからは、生徒なんだ。児童じゃない。その生徒は瀬戸口といって、春休みに水泳の大会で優勝して中学でも水泳部に入るつもりだと、一際大きな声を教室に響かせた。そうか、ということは、一年生で一番速いのはこの生徒か。僕より頭二つ分は背が高く、真っ黒に日焼けした顔は、目と歯が妙に目立っていた。

発表の順番が僕に回ってきた。中学の目標ならまだしも、春休みの思い出なんて、住む環境が変わったばかりで、思い出もなにもない。六組のみんながお別れ会を開いてくれたのは嬉しかったし、これからも忘れないだろうけど、それを新天地で発表してもみんな困るだろうと思い、桜島に行った話をした。すると斜め前に座っていた女子がプッと吹き出し桜島って」と誰かと目くばせしながらクスクスと笑った。不穏な、嫌な感じのする笑い方だった。

HRが終わると、掃除の時間になった。僕は前の席に座っている男子に話しかけた。名札を見ると、江口と書いてあった。
「雑巾がけってバケツ使うの?」
「いやー、俺も分からん」
「あ、そっか。あっちの水道で洗えばいいのかな」
「どうだろうね」
と、その後も江口と二人で行動していた。そのうち会話もなくなり、なにか話す事ないかなと思案し、そういえば裕美が二中に来るはずだったのではなかったかと思いだした。聞いてみると、知らないと言う。続けて、二中は二つの小学校から上がってきてるから、中原台小学校の方なのではないかと言い、近くにいた女子に「台小?」と聞いてくれた。
「そうだけど」と振り向いたのは、さっきクスクス笑っていた女子だった。「台小だけど、なに」と少し高圧的にこっちを見た。名札には福島とあった。
「あ、いや、裕美知ってるかなと思って。国東裕美」
「くにさき……ああ、知らない。いたっけ、そんな子」福島はクスクス笑った。
「ほんとに知らない?」

福島は「知らないよ」と突っぱねて「みんな知らないんじゃない」とまた、クスクス笑った。この感じは、見下しているんだ。自分より劣ると思ったものを笑いものにする目だ。僕の事ならまだしも、福島の視線の先に見えているのは、裕美だ。僕は裕美の、影に逃げ込むような力のない笑みを思い出した。裕美にあんな目をさせたのは、この女子か。
「おまえ」僕はどうしようと考える前に、福島に向かって一歩踏み出していた。
「なんなの」福島は低い声で睨み返してきて「近寄らないで」と両腕をそれぞれ違う方の手でさすりながら、一歩退がった。

腹から何かが込み上げて、心臓をふつふつと沸き立たせ、温度を上げた血液が全身の筋肉を震わせた。怒りを自覚したのは初めてだった。耳のすぐ傍で自分の鼓動が聞こえる。手を上げるわけにもいかず、発する言葉もない。

空気を察したのか、江口が「机、前に引こうぜ」と袖を引っ張る。でも、ここでうやむやにしたくなかった。引きたくない。

にらみ合う僕と福島の間に割って入ってきたのは、瀬戸口だった。瀬戸口は僕の詰襟を両手で持ち上げ、前後に揺らしながら
「わい、あんまはまんなよ」と歯をむき出しにして言った。この男もそっち側なのか。
「なんて?」僕は言い返す。というか、本当になんて言っているのか分からなかった。
「調子に乗るなって意味」瀬戸口の背中から福島がクスクス笑う。

僕は争いごとが嫌いだ。僕が我慢すればその場が丸く収まるなら、喜んでそうする。この先もこの学校で生きていかなければならないし、なるべく平穏な生活をしたい。綾との約束を果たすため、瀬戸口と同じ水泳部に入らなければならない。瀬戸口とは仲良くなっておいた方がいいかもしれない。だけど、友達の事となると話は別だ。どうする?僕は、拳をぎゅっと握った。どうするかなんて
「決まってる!」
吠えるように放った僕の声に、瀬戸口の背筋が一瞬ピクリと伸びた。同時に襟元をねじり上げている手も緩んだ。僕はその手に、思いっきり噛みついた。

 


         結んで開かず(完)     花村 由

結んで開かず(十五)喜一5

お別れ会が終わると、そのまま真一さんに連れられて飛行機に乗った。真一さんは母の兄で、僕をわざわざ島まで迎えに来てくれたんだ。

今日で友達みんなと別れなければいけない寂しさと、その事を自分ではどうすることもできない無力感を、訴え嘆く対象も見つからないまま、自分のうちに閉じ込め、それがまた行き場の無い怒りとなり、僕の手足をわなわなと震わせた。物凄い速さで小さくなってゆく島を飛行機の窓から眺め、もう来ることは無いかもしれないという感傷に浸りながら、一方では、やっと父と離れられるという安堵と解放感で胸を撫で下ろした。それと同時に、友との別れより己の束縛からの解放を喜ぶのかと罪悪感が湧き出し、整理できない感情の渦に巻き込まれて、息も絶え絶え、混乱と放心を繰り返した。

飛行機が空港に着くと真一さんのデボネアの助手席に座り、この一年の事を思い返していた。十三年しか生きていない僕にとって、そのうちの一年はあまりにも速く過ぎ去ってしまった。一人で生きていけると信じていた僕に初めて友達ができた。好きな人もできた。だけど、母は病気になった。両親は離婚するのだろうか。したほうがいい。そんなことを考えていると真一さんが運転する車は桜島に入り、祖父母の家があったという場所で止まった。

今は真一さんの経営するゴルフ練習場の倉庫に建て替わっている。車を降りると県道越しに海が見え、倉庫の裏手には黒いスポンジのような岩がゴロゴロしている。噴火で吐き出された火山岩だと真一さんに聞いたことがある。僕が初めて来た時にはすでに倉庫になっていたので、元はどんな家が建っていたのかは知らないし、祖父母の記憶もない。海と火山という暴力的な一面を持った自然に挟まれた生活は、どんなものだったのだろうと想像したことがあったけど、僕だったら壁一枚隔てた外に溶岩で出来た岩が転がっていると思うと、夜も眠れないんじゃないかと思った。

倉庫の裏から続く車では入れない細い道を5分ほど上ると、きれいに磨かれた石で区切られて墓石が立っている。登ってきた道を見下ろすと、倉庫の屋根が西日に染まっている。その先に錦江湾とそれを挟む大隅半島薩摩半島があって、遠くには開聞岳が見える。真一さんの先導で倉庫から持ってきたバケツと雑巾で墓石の汚れを落とし、ほうきで落ち葉を集めた。線香を焚き、卒業の報告をしなさい、と真一さんは手を合わせる。僕は墓参りとか、仏壇に線香をあげるのが苦手だ。会った事もない祖父母や先祖様と何を話すのか。報告しろと言われても、その対象のイメージもはっきりしないから空中に向かって話しかけてるみたいだし、いつ終わっていいのかも分からない。したがって、手ごたえもない。祖父母や先祖様のお陰で僕も今、生きていることは分かっているし、普段の生活の中ででも、ふと考えることもある。死んだ人たちが仏様になって空から見守ってくれているんだったら、その事にも気付いているはずだし、わざわざお墓の前でこれ見よがしに手を合わせる必要があるのかなと思う。かと言って何もしないわけにはいかず、真一さんに倣って手を合わせた。卒業できました。祝ってくれなくていいので、お母さんを治してあげて下さい。

結んで開かず(十四)喜一4

式次第は順調に消化され、卒業式は滞りなく終わった。来てくれた真一さんとの記念撮影が終わり、六組のみんなと写真を撮ろうとあたりを見渡していると、盛隆先生に職員室に来るように言われた。

真一さんと別れ、職員室に向かうと、これまでみんなで作成してきた卒業文集が印刷屋から届いているので、中身をチェックして欲しいと言われた。段ボール二箱分の卒業文集をパラパラとページをめくり、抜けがないか一冊一冊目を通した。それが終わると、盛隆先生と副担任の先生と僕で手分けして文集を教室まで運ぶことになった。HRにずいぶん遅れてしまったけど大丈夫なのだろうかと段ボールを抱えて教室に入った。その瞬間、僕は息をのんだ。折り紙で輪を作ってそれを繋げた飾りが教室中に張り巡らされていて、机は班をつくっていくつかにまとまって、その机の上にはお菓子や紙コップが並べられ、黒板には、喜一お別れ会、とでっかく書いてあって、その周りにみんなの寄せ書きや、昇のイラストが所狭しと踊っていた。僕は一瞬、体の力の入れ方を忘れ、段ボールを落としそうになった。振り向くと、
「みんなから頼まれてね」と盛隆先生がシーサーのような顔をほころばせて頷いた。尾関が司会をして、浩哉が一発芸を披露し、秋博が盛隆先生のものまねをして、美雪が笑い、裕美が手を叩いた。最後に、みんなで六年六組の歌を歌った。永遠なんて信じていなかったけど、ずっと友達だ、というみんなの言葉は信じれた。