結んで開かず(四)


 この学校に転入することが分かったとき、僕には一つの大きな心配事があった。
私服通学だったことだ。僕の服は数えるほどしかなく、兄のお下がりだったのでどれもボロボロだった。
前の学校は制服があったからよかったけど、着ていく服で家の生活レベルを知られてしまうと思うと恥ずかしかった。

父は下駄を作る職人をしていたけど、この時代、下駄を履いている人なんて見たことがなかったし、売れていないということは子供でも察知できた。普段は物静かだけど、お酒が入ると機嫌が悪くなり、よく母と言い争っているのを子供部屋で聞きながら、早くこの時間が終わってくれと祈った。
矛先が僕に向くこともあった。お酒に酔った父に何発も殴られ、母が止めに入り、僕を子供部屋に押し込んだ。左肩が焼けるように痛かったけど、事を大きくしたくなかったから、その日はそのまま眠った。次の日、腫れ上がった肩と高熱にうなされる僕を、母が病院に抱えて行ってくれた。左の鎖骨にひびが入っていた。僕は鎖骨という言葉をそのとき知った。「なんでもっと早く言わないの!」と母に言われた。今なら心配しての事だと分かるけど、その時は、なんで僕が怒られるのか不思議だった。そうだ、その時、スイミングスクールを一か月くらい休んだんだった。忘れてた。
それからは、父がお酒を飲み始めるとなるべく気配を消して、機嫌を損ねないように注意しながら子供部屋でじっと時間が過ぎるのを待った。
そのうちいつだったか、母が内職を始めた。何かの配線をビニールテープで束ねたり、ガチャガチャのカプセルに中身を詰めたり、造花をつくったりしていた。僕もやりたい、と言うと、「大丈夫だから」と優しい目をして微笑んだ。兄がスイミングスクールを辞めたのもこの時期だ。次に始めた野球も、リトルリーグとは名ばかりの、近所の野球好きのおじさんが無償でコーチをしてくれてるチームなのも知っていた。
それでも僕は、スイミングを辞めるとは言えなかった。母の事だから、きっと「そんなこと心配しなくていいの」と優しく微笑んだだろうし、僕にそんな心配をさせてしまった自分を責めるだろうから。
それとも、それらは言い訳で、泳ぐ時間を失うのが怖かっただけかもしれない。家はお金がないんだと気付きながら、それでも僕をスイミングに通わせてくれる母や兄に甘えてただけだ。ぼくはずるい。僕に何ができるのか考えてはみたものの、結局分からず、「大人になったら毎日お粥でもいいから、お金貯めて社長になる。そしたら内職しなくてもいいでしょ」と母に言うのが精一杯だった。「そんなのにならなくていいから、ちゃんとご飯は食べなさい」ときつく言われたのを覚えている。

父の事はあまり知らなかったけど父の作業場が好きだった。いろんな種類のカンナや、ノミや砥石が並んでいるのが好きだったし、充満したおが屑の匂いも好きだった。その場所で夏休みの工作の木彫りの船を一緒に作ってくれてた父の事も好きだったんだと思う。今ではよく分からない。仕事のことも、よく知らない。引っ越してきたのは小さいアパートだから、もちろん作業場もないし、道具をこっちに持ってきているのかも知らない。聞いてしまうと、知らない方がいい事まで知ってしまいそうで怖かった。

そうやって数々の言い訳をして、それぞれの場面で自らは行動を起こさない自分を、それでも逃げ出してはいない、その場から動けないだけだと、さらに言い訳を重ねる僕と、そんなのは弱虫で卑怯者のすることだと言いのける僕が混在して、また動けなくなる。どちらの自分も僕で、言い訳ととれる事を本気で思っているのも僕で、それでも進むべき道を探し、いくつもの僕の中にある公約数にそれを求め、探して苦悶しているのも僕なんだ。それを上の方から見下ろして、それ自体が言い訳なんだと責める僕もいる。
進まないことは逃げてる事なのかと自問し、その問いこそがナンセンスじゃないのかとまた自問する。
友達と仲良くなると必ずいつか家の話が出るだろうし、その時に何て説明すればいいかわからない。うまく説明できたとしても、気を使われるのも嫌だし、同情されるのももっと嫌だ。うまくごまかすとか嘘をつくとかも、友達に対して失礼だと思うし、それならいっそ家や自分の話にならない程度に距離を取って仲良くなるというのも、相手に失礼なんじゃないかと思う。仮にそれらを乗り越えたとしても、別れはやってくる。
友達とは何なのか、自分とはなんなのかが分からないと、進もうにもどこに足を出していいのか分からない。決して、自分の歩く方向を、その先を誰かに決めてもらいたいなんて思っているわけじゃない。自分に無責任なことはしたくない。結果そうなってるじゃん、と僕が言い、じゃあどうすればいいの、と僕が言う。まぁ分かるけどそれよりあだ名決めようぜ、と浩哉が言い、うんうん、とみんながやさしく笑う。僕にはそう聞こえたんだ。