結んで開かず(九)

 放送委員会の登下校時の全体放送は二人一組で行うことになっている。ペアはくじ引きで決められ、僕の相手は一学期に引き続きあかねになった。あかねは明るく活発な女子だった。顔の作りが一つ一つはっきりしていて、その口を大きく開けて笑う姿は関根勤を思わせた。面倒見がよくて、僕の最初の登校時の全体放送のとき、スイッチを押す順番や、聞き取りやすくするためのアクセントの場所など教えてくれた。なぜそんなに詳しいのかと聞くと、一学期と二学期は六年生だけだけど、三学期は五年生からも希望者が放送委員になって、その時に引継ぎのようなことをするのだと、丁寧に教えてくれた。あかねからもよく話しかけてくれて、歌番組に出演した好きなアイドルの話とか、自身が所属している女バスの話とかしてくれた。中でも僕が一番興味を持ったのは、あかねが女バスの中で一番仲が良いと言う美雪の話だった。

美雪は僕と同じクラスで、すらりと背が高く、小さな顔は切れ長の二重の目が印象的なモデルみたいな女子だった。クラスの中ではそんなに目立つ方ではなく、少し控えめなところと日に焼けた肌が、容姿からくる近寄り難さを中和してくれていた。あかねを真昼の太陽だとすると、美雪は温かい陽だまりのような雰囲気だった。あかねが話してくれる美雪の誕生日会に家に行った話や、部活の休憩時間に美雪が水筒を忘れて二人でポカリを分け合った話を聞いているうちに、僕の中の美雪の像が形作られ、それを完成させたいと思うようになった。つまり、美雪の事をもっと知りたいと思った。
クラスの話し合いの時には、美雪がどんな事を考えているのかと、その発言に注目し、何人かで企画された怖い話大会に美雪が行くというのを知れば、話せるような怖い話もないくせに参加し、修学旅行の実行委員に美雪が手を挙げれば、僕も手を挙げた。
ちょうどその頃、周りでは誰が誰の事を好きだとか、誰と誰が付き合っているという話が飛び交っていた。僕は付き合うという事が何を意味するのか知らず、あかねに聞いてみた。「うぅん」あかねには珍しく、何か言いにくそうな感じだったけど、「あ」と閃いたように「両想いになるって事だよ」と教えてくれた。なるほど両想いか。確かに僕が美雪の事を知りたいように、美雪にも僕の事を知りたいと思ってもらえたら、それは嬉しい事だなと納得した。
修学旅行の前日、実行委員の数人が放課後集まり、栞の作成の仕上げを行った。僕は美雪と昇と一緒に、移動中にバスの中でみんなで歌う楽曲の歌詞を書いた。美雪の左利き特融のクセがあり、それでいて綺麗でシャープな文字に惚れ惚れした。細くて長い整った指から美しい文字が生み出される光景を見て、圧倒的な大自然の荘厳さを想い、この旅行で見ることになるであろう屋久杉をそこに重ねてうっとりとした。
その美雪の文字に、昇の可愛らしいイラストが加えられ、中々にいい出来になった。作業中にも、旅行中の自由時間に誰と誰が会う約束をしているらしいという噂が話題にのぼった。僕の隣で文字を書く美雪を見た。美雪は誰かと約束しているのだろうか。もしいなかったら、その相手は僕になる可能性はあるんだろうか、とやきもきしたりした。
その日までに作成していた旅行の工程表や、観光場所の情報、班割りなどをコピーして巨大なホチキスでとめ、その場所に色付きのガムテープを張った。これらの作業を先生の指示なく、しかも滞りなくこなすクラスメイト達がとても大人に見えた。その想いは転入早々からあった。
始業式から数日経ったHRで六年六組の歌を作ろうという事になった。テキパキとクラスをまとめる尾関や、音楽室のピアノを使って作曲する詩織や、みんなの好きな言葉をまとめて歌詞を綴った美里など、このクラスは色んな才能を持った人たちの集まりなのかと驚かされた。一方自分の事を顧みれば、何一つとして秀でたものもなく、それどころか全てが劣っているという事実に、劣等感を抱くことさえできなかった。それが秋博の一件で、一歩みんなに近づけた気がしたんだ。勇気を出さなきゃいけない瞬間に、立ち上がり一歩前に出るんだ。それだけの事だけど、その数の分だけ、みんなに近づける気がする。その積み重ねの上に立っているから、みんな堂々と屈託なく笑えるんじゃないかと思う。僕もみんなと同じ所で、みんなと笑いあいたかった。その為には、勇気を出さなきゃいけない瞬間に、立ち上がり一歩前に出るんだ、と自分に言い聞かせた。
栞の作成が終わって下校する前、「ちょっと話があるんだけど」と美雪に切り出した。「あ、うん。じゃあ外の体育倉庫の前でいい?」美雪はまるで、僕に話しかけられるのが分かっていたかのように、すぐに答えた。
外の体育倉庫とは、校舎と校庭の間にある体育倉庫で、校庭側は大きな二つの引き戸で閉じられている。校舎側は階段になっていて屋上の国旗掲揚台に上れるようになっていた。美雪は、その階段に座って待っていた。僕はその隣に腰かけて美雪を見た。美雪もこちらを見返す。僕は視線をそらし校舎の方向を見る。呼び出しておいて、これは何だ。だらしない。自分を奮起させ、もう一度美雪を見た。美雪もこちらを見返す。美雪は何も言わず、待ってくれている。こういう時は、とにかく一言何か言うんだ。何か言ったら、続きを言わなきゃならなくなる。「あのさ」美雪の二重の目を見る。「ん」と言う美雪の長いマツゲが揺れる。目をそらそうとする自分を、次の一言を言えと急かす。「僕と・・・好きです、僕と付き合ってください」「ごめんなさい、他に好きな人がいます」それだけ言うと、美雪は校門に向かって駆けだした。僕が告白するのが分かっていたのだろうか、間髪入れずの答えだった。あまりの呆気なさに、何が起きたのか分からないような、分かりたくないような、思考を停止させながら美雪を眼で追った。暮れなずむ校門に向かって、美雪は走って行っている。僕から離れて行っている。その姿は小さくなってゆく。そうか、ふられたのか。悲しくも悔しくもなく、ただそう思った。美雪が見えなくなり、誰も居なくなった視線の先を、しばらくの間見るともなく、動けずにいた。

家に帰ると、父はすでにお酒を飲んでいた。まずいなぁと思った。屋久杉まで歩く間に様々な鳥や動物がみられるかもしれなかったので、父の双眼鏡を借りようと思っていたからだ。ご飯を食べる間、特に機嫌が悪いようには見えなかったので「双眼鏡貸してほしいんだけど」と聞いてみた。「何で」父の声は低く、尖っていた。理由を言うと、父は陶器の灰皿に手をかけた。咄嗟に母が僕をかばうように覆いかぶさった。「馬鹿が!」と言いながら父が放った灰皿は、母の背中に当たって中身を蒔きながら転がった。「子供が扱えるような安もんじゃない!」その父の言葉からも、母は僕を守ろうとしているようだった。僕なら大丈夫だよと、母を押しのけようとした。母は小さく数回首を横に振ると、あの優しい目で僕を子供部屋に促し、押し込んだ。
僕は何をされようと、覚悟はできてたんだ。体操座りで足の間に頭を入れて、膝で耳を挟んで部屋の外の言い争いがなるべく聞こえないようにした。もう一度父に向って行こうと思ったけどやめた。僕が殴られるのはいいけど、母が殴られるかもしれないと考えると、動けなかった。神様なんて信じてなかったけど、止めてくれ、終わってくれと祈るしかなかった。何かわからないものに祈り続けた。

次の朝起きると、いつもより早い時間の出発なのに、母はご飯を作ってくれていた。僕がご飯を食べ終わると、母が双眼鏡を食卓に置いた。「持って行きなさい」「大丈夫だよ。視力いいから。遠くても見えるし」それに、僕がいない間に父を怒らせるわけにはいかなかった。父が怒るのが分かっていながら、一人だけ旅行を楽しめるわけもなかった。「ごめんなさいね、一生に一度の事なのにね、気持ちよく行ってきてね」母の優しいその目は、涙で濡れていた。僕は母の涙を初めて見た。何か悪いことをしてしまったような気がして「大丈夫だよ。いってきます」となるべく明るく言って、早々に家を出た。

母は確かに泣いていた。僕は母のいつも優しい目を思いだした。内職を手伝おうと僕が言った時、大丈夫だからと言った優しい目と、秋博の家に謝りに行った帰りの嬉しそうな優しい目と、昨日僕をかばってくれた優しい目を思いだした。それが今日、泣いていた。これからは僕が守らなきゃと思ったとき、僕は気付いたんだ。母の優しい目、それは強さなんだって。優しくするためには、守るためには、強さが必要なんだ。母の優しい目は、僕にとって強さの象徴だったんだ。昨日は美雪に振られて、今日は母の涙を見て、頭の中はぐちゃぐちゃだったけど、強く、強くなりたいと思った。早く、大人になりたい。僕は集合場所の校庭に向かって、思いっきり走った。走った分だけ、早く大人に近付けるような気がした。

バスの中で僕はみんなと一緒に「情熱の薔薇」を歌っていた。ちょうどその頃、母が倒れたのも知らずに。