結んで開かず(十)

「では黒板に書いた班ごとに座り直してください」
十個に分かれた班の一つは、僕が班長だ。といっても、班員は一人だけだけど。黒板を見て、その名前を確認した。大津綾。六年生はみんな班長だから、五年生か四年生の女子だろう。僕の班に割り当てられた、視聴覚室の左後ろの席に向かった。
 今日は天文クラブの観測会だ。転校してきて、クラブ活動をどれにするかというのは大事な問題でもあった。途中で変更もできないし、どんなに嫌いな人がいても、一年間我慢しなくちゃいけない。これが勝手に決められたクラブだと、諦めもつく部分があるけど、自分で決めたとなると、なんでこのクラブを選んでしまったのだろうと自分を呪い、後悔することになる。一週間に一度の四十五分間だけど、なるべくストレスになることは避けたい。今まで通り無難に将棋かなとぼんやりクラブ一覧を眺めると、天文クラブに目が留まった。星座と、それにまつわる神話が好きだったからだ。元々は、星座をモチーフにした鎧を着るヒーローアニメから始まり、黄道十二星座北極星、明けの明星、宵の明星の金星など、さらにはポアンカレ予想にも興味は波及していた。好きな事を学べるなら、苦手な人が一人や二人いても気にならないだろうと思い、天文クラブに入った。
 入って気づいたんだけど、顧問は放送委員会と同じ嘉納先生だった。これはついてる、と思った。知っている先生の方が安心できたし、嘉納先生は僕の好きな先生のひとりだったからだ。
 クラブ活動初日、先生はみんなに春の星座はどんなのがあるか、と質問した。「おおぐま座」「そうだね」「かに座」「そうだね」「カシオペヤ」「カシオペヤのM字もまだ見えるね」「オリオン座」「オリオン座もまだ見えるけど、カシオペヤと同じで、冬の星座に入るね。先生はオリオン座を見ながらオリオンビールを飲むのが好きだけどね」先生が笑い、みんなも笑った。
「ところで、オリオン座は何で冬しか見えないか知ってる人いる?」みんなは少し上を向いて、星空を思い浮かべて考えているようだった。先生はその様子を見て「これには神話があってね」と続けた。「オリオンは美しく勇敢な戦士だったんだけど、小さなサソリに刺されて死んじゃったんだ。それ以来、さそり座が出る夏になると、オリオンは怖がって地球の反対側に逃げてしまうようになったんだ」みんなは目から鱗どころか、目から星座が飛び出るほど感嘆の声を上げた。この話で僕の心は鷲づかみにされて、次はどんな話を聞かせてもらえるのかとクラブの時間が待ち遠しくなった。時には先生の子供の話も聞いた。夜空に青白く輝く六連星のように、清澄に育ってほしいという意味で昴と名付けという話や、他にも様々な星座や星、超新星爆発ブラックホール、簡単な相対性理論や研究施設のセルンの話など、僕にとっては心と一緒に脳みそも踊りだしそうな話をたくさん聞かせてくれた。
 そうやって先生の話に熱中するあまり、同じクラブ員の顔など、一人として覚えていなかった。だから、大津綾という名前を見ても、誰の顔も思い浮かぶはずなく、先に席に座っていたその顔を見ても、やっぱり初めて見る顔だと思った。それでも、4月からずっと同じクラブで、同じ活動をしてきたんだし、初めましては変かなと思い、「あ、どうも」と曖昧に頭を少し下げた。綾も「あ、どうも」と応え、イヒヒと少しいたずらっぽく笑った。そのしぐさが、とても幼く見えた。
 観測会の今日は土曜日で、昼で下校し、それぞれ夕食をとった後に十九時に集合した。「では、一班から順番に屋上に上がって下さい。班長は、後ろの棚から望遠鏡を持って行ってください」嘉納先生が言い終わると、視聴覚室の右前に座っていた数人が立ち上がった。
 僕は十班だから、教室をでるのは一番最後だ。順番が回ってくるまでの間、ほとんど初対面の下級生の女子と二人で待っているという、この時間の気まずさといったらなかった。何か話した方がいいのだろうかと、もやもやしているうちに、結局何も言わないまま屋上に上った。
 それぞれの班が思い思いの場所で、二百倍の屈折式望遠鏡を組み立てていた。僕は人通りがあると嫌なので、出入り口から一番離れた場所に望遠鏡のハードケースを下し、膝をついて組み立てにかかった。
「手伝おっか」という綾の声に応えようとそちらを向くと、綾の顔が想像以上に近くにあって、びっくりして尻もちをついた。綾はイヒヒと笑った。二重瞼で切れ長のその目を見て、美雪を思いだしドキッとした。美雪の事は、彼氏もできたみたいだし、とうに諦めがついていたけど、どうやら僕は、切れ長の目が好きなのかなと思った。「びっくりした?」屋上に吹き降ろす秋の風が、綾の長い髪の毛をサラサラと洗った。幼いと思っていた女の子が、急に大人っぽく見えた。その合間に見え隠れした首元を見て、僕はあれ?と思った。
「もしかして、ラジオ体操一緒だった?」
「え、今更?」綾は、今度はフフフと笑った。僕はなにか悪いことしてしまったという気持ち半分と、恥ずかしさ半分で顔を赤くしながら「ん、ごめん」と小首を垂れた。
「いや、謝らなくていいけど」フフフ「じゃあもしかして、もう一か所、喜一君と会ってる場所あるけど、それも気付いてない?」
「もう一か所……」僕の行動範囲なんて知れたものだし、その狭い範囲のどこに居たのだろうかと記憶をたどってみるけど、思い当たらない。
「じゃあヒントね」綾は、なにか重大な秘密を打ち明けるように、僕の耳元で「火曜と金曜」と囁いた。
「あっ……え、うそ、スイミング?」
「ポンピーン!」綾は無くなっちゃうんじゃないかと思うくらい目を細めて笑った。
「え、あの速い子だよね」
「喜一君よりは遅いけどね」
 僕は僕が認識している人のことしか考えられなかったけど、意識していない人達にだってそれぞれの暮らしがあって、夢があって、そして、生きているんだ。僕が見ている世界意外にも、人それぞれ見ている世界があって、人の数だけ世界がある。それがこうやって、所々で交わることなんて、奇跡に近い事なんじゃないだろうか、と大きなことを考えてみたりもした。
「何でもっと早く教えてくれなかったの」
「知ってると思ってた」綾はまだ笑い足りないらしく、クククと息を漏らし、続けた。「気付くでしょ、普通」
「いやぁ、まぁ、髪型も違うし」
「スイミングの時はお団子にしてるからね」綾は何度か手櫛を入れながら言った。その仕草は大人がするやつじゃん、とドキドキしながら、細くてさらさらと揺れる髪の毛を見て、触ったら気持ちよさそうだとしばらく見とれてしまった。
「あ、ほら、組み立てよ」綾は少し照れたように三脚を手に取った。「喜一君は、育成コース行かないの?」
「あ、うん。うち、お金ないから」
「そっかぁ。一番速いのにね」
「まぁ、しょうがないよね」
「卒業するまでは続けるんでしょ?」
 卒業と言う言葉が、僕の頭を鐘みたいに、ゴーンと叩いた。そうか、もうすぐ二学期も終わって、三学期も三か月で終わって、僕は中学生になるのか。早く大人になりたいと気持ちは急くけど、まだ今のままで居たいなんて想いもある。
「そうだね。もっと速くなりたいしね」
二人で望遠鏡を組み立てながら、綾が小さく「よかった」と言ったのを聞いた。

 僕は初めて土星を見た。土星の環は隕石などが集まってできていると聞いていたので、ぼやけて光っているのかと想像していたけど、くっきりと、白く、光っていた。僕は綾と代わるがわる、何度もレンズを覗きこんだ。