結んで開かず(十一)喜一3

準備体操が終わりシャワーを浴びて、プールサイドを歩いていると、
「肩、どうしたの」と綾が話しかけてきた。

学校では服で隠せても、スイミングの時はそうはいかなかった。

昨日の夜は女の人が家に来なかったので、父と二人だった。なるべく顔を合わせないように、部屋で本を読んでいたけど、トイレに立った時に、捕まった。お前は根性がなってないんだ、思い通りになると思ったら大間違いだぞと、酔って呂律が回らない口で言い、柔道を教えてやる、と言って僕を何度も床に投げつけた。投げる度に、馬鹿が、お前が悪いんだ、早く出て行け、と唾を飛ばした。力では勝てないし、抵抗しようものなら、反抗したなと、もっと酷い事になる。止めてくれる人もいない。父が疲れるまで、耐えるしか無かった。僕は、そう簡単に出て行ってやるもんかと、何に向かって意地を張っているのかも分からないまま、ギリリと歯を噛んだ。

「友達と相撲してたら、ハッスルしちゃって」と誤魔化した。綾は、僕の右肩に出来た大きな青アザを突こうとしたけど、
「痛そう」と言ってその手を止めた。
「知らないの?青アザって、見た目と違って痛くないんだよ」と肩を回して見せた。

ビート板を使ってのキック練習をバタフライ、平泳ぎ、クロール毎に二十五メートルを二本ずつ、クロールの流しを五十メートル一本、同じく背泳ぎを一本終わると、みんなプールサイドに上がり、毎月一回行われるタイム測定が始まった。今回は二百メートル個人メドレーを計った。肩は痛んだけど、なんとか前回よりタイムは縮まった。綾も記録を更新できたみたいだった。

練習が終わると素早く着替えて、自動ドアの外の邪魔にならないところで大きく伸びをした。右肩をかばいながら腕や肩の柔軟体操をしていると、ほどなくして綾も出てきた。
「メドレー、早かったね」綾は目を細めて言った。
「綾もね」
「絶対追いついてやるから。じゃあね」と、お腹のあたりで小さく手を振った。
「うん、じゃあね」僕もそれに倣った。
綾は駐車場で待っているお母さんの車に乗り込み、帰って行った。

僕は十分程かけて家の近所のスーパーまで歩いた。食堂でソーキそばを頼むと、おばちゃんが「売れ残ったやつだから」と言って、いなり寿司を二個つけてくれた。

三学期が始まってから父は食事を作ってくれなくなった。お金もないので、しばらく給食だけで過ごしていた。クラスで休む人がいたら、余ったパンをもらって、土日に食べた。誰か病気になって休んでくれないかなと考えては、友達に対して何て事を考えるんだ、僕は結局自分が一番大事なのかと自己嫌悪に陥ったりした。その様子に盛隆先生が気付いたらしく、真一さんが家に来て、封筒をくれた。中身は三万円だった。見た事ない大金を眼に、僕は硬直したけど、「これでちゃんと、ご飯を食べなさい。お金のことがお父さんにバレたら取られるだろうから、気をつけなさい」と諭すように真一さんに言われ、頷いた。本当はご飯も炊けるし、味噌汁や卵焼きくらいなら作れるけど、家で作るとお金があるって分かってしまうかもしれないから、食堂に通うのが日課になった。

ソーキそばといなり寿司を平らげ、おばちゃんにお礼を言って店を出た。僕の身体は、色んな人の優しさで作られているんじゃないかと考えながら家に帰った。今日は、女の人が来ていた。シャワーを浴びて洗濯を回し、その間に宿題を済ませた。洗濯物を干して、部屋に戻り読みかけの灰谷健次郎の太陽の子を開いた。

しばらくすると向こうの部屋で、女の人が猫みたいな声を出し始めた。僕は机に突っ伏して、耳を塞いだ。このまま平手で耳を叩けば、鼓膜が破れて聞こえなくなるかなぁと考えたり、耳なし芳一の話を思い出し、耳以外に念仏を描いたら、何者かが耳を持って行ってくれるかなと想像したり、そしたら友達と話せなくなって困るな、でも綾だったら手話とか覚えてくれそうだな、手話の勉強しとこうかな、と考えているうちに、いつの間にか眠っていた。寒さで目が覚めて、音がしないように気を付けながら布団を敷いて、カーテンを開けたまま再び眠りについた。部屋に差し込む朝陽で目を覚まし、顔を洗って着替えを済ませ、静かに家を出た。