結んで開かず(十三)綾3

僕が通っているスイミングスクールは、プールサイドが広くて、そこで練習前の準備体操をすることになっている。その時僕は、窓に映る自分を見て身体のチェックをする。両手を真っすぐに上に伸ばして自分の手を握り上体を傾ける運動の時、広背筋に押し出された肩甲骨が、脇の横に魚のヒレのように張り出すのを見て、満足する。

速く泳ぐためには、綺麗なフォームと筋力アップが必要だ。当たり前だけど。そして、クロールと背泳ぎは、キックだけよりも腕だけの方が速い事に気付いていた。メドレーで考えた時、バッタ、バック、平、クロールの内、キックが重要なのはバッタと平、水をかく力が必要なのは四種共通ならば、上半身を鍛えた方が手っ取り早くタイムは縮むと考えた。週四時間しかない練習時間を有効に使うため、バッタと平のキック練習は真面目に取り組んだけど、バックとクロールのキック練習は力を抜き、その分の体力を腕に回した。流し練習でも、下半身は力を抜き、浮力を失わない程度に腰の回転だけに任せて、なるべく腕の筋力だけで泳いだ。負荷をかける為に息継ぎの回数を減らしたりもした。その甲斐あってか、満足のいく記録を残せるようになった。

練習時には一級の数名が、コーチの合図で十秒ごとにスタートすることが多く、つっかえないように、速い人から順番に泳ぐことが決まっていた。たいていの場合僕が一番初めに泳いでいた。二番目に泳ぐのはその場その場で入れ替わっていたけど、いつの頃からか、綾が二番目に定着するようになった。と思っていたら、綾はぐんぐんと速くなり、練習でも僕の後ろから食らいつくように追ってきていた。そのお陰で発破をかけられ、僕も練習に身が入った。お互い口には出さないけど、競い合い、励ましあった。

過去形。そう、それも今日で最後。もうこのスイミングスクールで泳ぐこともないだろう。綾と泳ぐのも、恐らくこれで最後。になるのだろうか。この先も水泳を続けて行けば、いつかまた一緒に泳げるような気もする。お互い大人になって、自分の道は自分で決めれるようになれば、きっとまた。綾は今日も変わらず力強い泳ぎを見せ、プールの水を弾けさせた。

練習が終わるといつものように早めに着替えをすまし、出入り口近くで柔軟体操をしていた。右肩をほぐしていると、綾が出てきた。綾は僕の正面でカバンから何かを取り出し、差し出した。ジップロックに入れられた本のようだった。
「これ。濡れたら困るから」
水着やタオルで濡れないように考えたのだろう。僕はそれを受け取った。
「詩集。ロマンス。たまには、わたしの事も思い出してよね」綾は目を細めて言った。
「あ、うん。何で、知ってるの?」
「女子には色んなネットワークがあるの」綾はいたずらっぽい笑みを浮かべたけど、声は出ていなかった。確か、誰かも同じようなことを言っていたと思い、記憶をたどった。そうだ、裕美だ。そういえば、詩集の話もしたかもなと思いだし、気持ちを伝えた方がいい、と言っていたのも裕美だったなと思い出した。綾に気持ちを伝えるかどうかは、この二か月ちょっと、ずっと考えていた。どうしたらいいのか分からなかったし、選択肢が狭められた中、どうしたいのかもわからないままだった。でも伝えるなら、今しかない。今が、ラストチャンスだ。僕は背筋を伸ばし、綾の瞳を見た。
「ありがとう。大事にする。あのさ」
僕たちの間に、数滴の雨粒が落ちてきた。
「オレ、綾の事、前から」
「いいの」綾は視線を僕のつま先に落とした。「知ってる。わたしもだから。てゆーか、わたしの方がもっと前からだし」綾の顔から笑みは消えていて、荒くなる息をゆっくり整えながら、眉と口を八の字にし、その瞳は助けを求めるように真っ直ぐ僕を見たかと思うと、すぐにまた下を向いた。そして大きく息を吸い込みながら向き直った。僕はその息遣いひとつひとつを、失くさない様にすくい上げて両手で包んだ。
「わたし、喜一より速くなるから。速くなって、有名になる。そしたら、」雨が降り始めた時のアスファルトの匂いが、なにか悲しい思い出を呼び起こすように、僕の中で震えた。
「そしたら、わたしの事、」綾は両手で顔を覆い、続けた。「忘れないよね」込み上げてくる何かを必死に抑えているように、少し震えた声だった。雲は、落とす雨粒を増やして、綾の小さな肩を濡らし始めた。
「忘れないよ。オレも有名になるから、忘れるな」
「うん」綾は下を向いたまま頷き、そのまま駐車場に向かって駆け出した。雨粒が白い斜線のように、綾を少しずつ霞ませた。

綾のお母さんは車の外で傘をさして待っていて、綾を助手席に乗せると、こちらに向かって深くお辞儀をした。ぼくはびっくりして、それに倣った。

卒業式の前日の事だった。