結んで開かず(十四)喜一4

式次第は順調に消化され、卒業式は滞りなく終わった。来てくれた真一さんとの記念撮影が終わり、六組のみんなと写真を撮ろうとあたりを見渡していると、盛隆先生に職員室に来るように言われた。

真一さんと別れ、職員室に向かうと、これまでみんなで作成してきた卒業文集が印刷屋から届いているので、中身をチェックして欲しいと言われた。段ボール二箱分の卒業文集をパラパラとページをめくり、抜けがないか一冊一冊目を通した。それが終わると、盛隆先生と副担任の先生と僕で手分けして文集を教室まで運ぶことになった。HRにずいぶん遅れてしまったけど大丈夫なのだろうかと段ボールを抱えて教室に入った。その瞬間、僕は息をのんだ。折り紙で輪を作ってそれを繋げた飾りが教室中に張り巡らされていて、机は班をつくっていくつかにまとまって、その机の上にはお菓子や紙コップが並べられ、黒板には、喜一お別れ会、とでっかく書いてあって、その周りにみんなの寄せ書きや、昇のイラストが所狭しと踊っていた。僕は一瞬、体の力の入れ方を忘れ、段ボールを落としそうになった。振り向くと、
「みんなから頼まれてね」と盛隆先生がシーサーのような顔をほころばせて頷いた。尾関が司会をして、浩哉が一発芸を披露し、秋博が盛隆先生のものまねをして、美雪が笑い、裕美が手を叩いた。最後に、みんなで六年六組の歌を歌った。永遠なんて信じていなかったけど、ずっと友達だ、というみんなの言葉は信じれた。

 

結んで開かず(十三)綾3

僕が通っているスイミングスクールは、プールサイドが広くて、そこで練習前の準備体操をすることになっている。その時僕は、窓に映る自分を見て身体のチェックをする。両手を真っすぐに上に伸ばして自分の手を握り上体を傾ける運動の時、広背筋に押し出された肩甲骨が、脇の横に魚のヒレのように張り出すのを見て、満足する。

速く泳ぐためには、綺麗なフォームと筋力アップが必要だ。当たり前だけど。そして、クロールと背泳ぎは、キックだけよりも腕だけの方が速い事に気付いていた。メドレーで考えた時、バッタ、バック、平、クロールの内、キックが重要なのはバッタと平、水をかく力が必要なのは四種共通ならば、上半身を鍛えた方が手っ取り早くタイムは縮むと考えた。週四時間しかない練習時間を有効に使うため、バッタと平のキック練習は真面目に取り組んだけど、バックとクロールのキック練習は力を抜き、その分の体力を腕に回した。流し練習でも、下半身は力を抜き、浮力を失わない程度に腰の回転だけに任せて、なるべく腕の筋力だけで泳いだ。負荷をかける為に息継ぎの回数を減らしたりもした。その甲斐あってか、満足のいく記録を残せるようになった。

練習時には一級の数名が、コーチの合図で十秒ごとにスタートすることが多く、つっかえないように、速い人から順番に泳ぐことが決まっていた。たいていの場合僕が一番初めに泳いでいた。二番目に泳ぐのはその場その場で入れ替わっていたけど、いつの頃からか、綾が二番目に定着するようになった。と思っていたら、綾はぐんぐんと速くなり、練習でも僕の後ろから食らいつくように追ってきていた。そのお陰で発破をかけられ、僕も練習に身が入った。お互い口には出さないけど、競い合い、励ましあった。

過去形。そう、それも今日で最後。もうこのスイミングスクールで泳ぐこともないだろう。綾と泳ぐのも、恐らくこれで最後。になるのだろうか。この先も水泳を続けて行けば、いつかまた一緒に泳げるような気もする。お互い大人になって、自分の道は自分で決めれるようになれば、きっとまた。綾は今日も変わらず力強い泳ぎを見せ、プールの水を弾けさせた。

練習が終わるといつものように早めに着替えをすまし、出入り口近くで柔軟体操をしていた。右肩をほぐしていると、綾が出てきた。綾は僕の正面でカバンから何かを取り出し、差し出した。ジップロックに入れられた本のようだった。
「これ。濡れたら困るから」
水着やタオルで濡れないように考えたのだろう。僕はそれを受け取った。
「詩集。ロマンス。たまには、わたしの事も思い出してよね」綾は目を細めて言った。
「あ、うん。何で、知ってるの?」
「女子には色んなネットワークがあるの」綾はいたずらっぽい笑みを浮かべたけど、声は出ていなかった。確か、誰かも同じようなことを言っていたと思い、記憶をたどった。そうだ、裕美だ。そういえば、詩集の話もしたかもなと思いだし、気持ちを伝えた方がいい、と言っていたのも裕美だったなと思い出した。綾に気持ちを伝えるかどうかは、この二か月ちょっと、ずっと考えていた。どうしたらいいのか分からなかったし、選択肢が狭められた中、どうしたいのかもわからないままだった。でも伝えるなら、今しかない。今が、ラストチャンスだ。僕は背筋を伸ばし、綾の瞳を見た。
「ありがとう。大事にする。あのさ」
僕たちの間に、数滴の雨粒が落ちてきた。
「オレ、綾の事、前から」
「いいの」綾は視線を僕のつま先に落とした。「知ってる。わたしもだから。てゆーか、わたしの方がもっと前からだし」綾の顔から笑みは消えていて、荒くなる息をゆっくり整えながら、眉と口を八の字にし、その瞳は助けを求めるように真っ直ぐ僕を見たかと思うと、すぐにまた下を向いた。そして大きく息を吸い込みながら向き直った。僕はその息遣いひとつひとつを、失くさない様にすくい上げて両手で包んだ。
「わたし、喜一より速くなるから。速くなって、有名になる。そしたら、」雨が降り始めた時のアスファルトの匂いが、なにか悲しい思い出を呼び起こすように、僕の中で震えた。
「そしたら、わたしの事、」綾は両手で顔を覆い、続けた。「忘れないよね」込み上げてくる何かを必死に抑えているように、少し震えた声だった。雲は、落とす雨粒を増やして、綾の小さな肩を濡らし始めた。
「忘れないよ。オレも有名になるから、忘れるな」
「うん」綾は下を向いたまま頷き、そのまま駐車場に向かって駆け出した。雨粒が白い斜線のように、綾を少しずつ霞ませた。

綾のお母さんは車の外で傘をさして待っていて、綾を助手席に乗せると、こちらに向かって深くお辞儀をした。ぼくはびっくりして、それに倣った。

卒業式の前日の事だった。

結んで開かず(十二)裕美

借りていた本を返しに図書室に来た。返却カウンターに座っていたのは、三学期に僕のクラスに転入してきた裕美だった。
「あ、図書委員だったの?」
「うん。先生に頼んでしてもらった」
「そうなんだ。あ、そういえば、今ちょっといいかな」
「うん?うん。誰も居ないし」
「裕美さ、K市から来たんだよね」
「うんうん」
「オレ卒業したら寿町に行くんだけど、どのへんだった?」
「へー、そうなんだ。じゃあ二中?」
「うん」
「わ、じゃあすごい近くだよ」
「お、まじ?なんかすごいね。入れ替わりみたいな」
「あは、そうだね」
「じゃあ友達とかどんな感じだった?」
「あー、うーん。そうだなぁ」裕美は目線を下げて、その口元は力が無く、辛うじて笑みを保っているように見え、前髪に隠れてしまった目は、影の中に逃げ込んだかのようだった。あまり過去の事を話したくないのだろうか。
「まぁ、行ってからのお楽しみだな。こっちにはもう慣れた?」
「うん。みんなやさしいし」
「だよね。オレも転校してきたんだけど、なんか、みんな会った瞬間友達、みたいな感じでびっくりするよね」
「うんうん。わかる。思ってたのと全然違くて。いい方にだけど。うーん、私を縛っているものは、観念なのだから、みたいな」あはっ
「あ、知ってる。それを一打のうちにときはなってくれる力を持つ。でしょ」
「わ、すごい。何で知ってるの?」
「いや、まぁ読んだことがあって」
「男子で珍しくない?」
「え、なんだよ。いいじゃん別に」無意識に口を尖らせてしまった。
「あは、うんうん、いいけど。じゃああれだね、噂の彼女に借りたのかなぁー?」
「え、なにそれ、いないよ」
「あれ、そうなの?五年生の女子と」
「あ、いや、付き合ってはないけど」
「はないけどぉー?」
「なんだよ、いいじゃん」
「告っちゃえー」あは
「なんでそうなるんだよ、いいだろ、うん、ほら、オレ居なくなるし」
「あー、気にしなくていいんじゃない?」
「そうなの?だって、ほら」
「んー、その子の事は知らないけど、言われたら嬉しいんじゃない?多分。よっぽど嫌いじゃない限り。うん」
「うーん、てか、噂って何?誰から?」
「あは、女子にはねー、ネットワークがあるんですー」
「なにそれ、怖えーな」
裕美があはっと笑うと、ガラガラと図書室の戸が開いて、本を持った女子が入って来た。
「あ、じゃあ、それ、返却しといて」
「うん、しとく」
僕は足早に図書室を出た。

結んで開かず(十一)喜一3

準備体操が終わりシャワーを浴びて、プールサイドを歩いていると、
「肩、どうしたの」と綾が話しかけてきた。

学校では服で隠せても、スイミングの時はそうはいかなかった。

昨日の夜は女の人が家に来なかったので、父と二人だった。なるべく顔を合わせないように、部屋で本を読んでいたけど、トイレに立った時に、捕まった。お前は根性がなってないんだ、思い通りになると思ったら大間違いだぞと、酔って呂律が回らない口で言い、柔道を教えてやる、と言って僕を何度も床に投げつけた。投げる度に、馬鹿が、お前が悪いんだ、早く出て行け、と唾を飛ばした。力では勝てないし、抵抗しようものなら、反抗したなと、もっと酷い事になる。止めてくれる人もいない。父が疲れるまで、耐えるしか無かった。僕は、そう簡単に出て行ってやるもんかと、何に向かって意地を張っているのかも分からないまま、ギリリと歯を噛んだ。

「友達と相撲してたら、ハッスルしちゃって」と誤魔化した。綾は、僕の右肩に出来た大きな青アザを突こうとしたけど、
「痛そう」と言ってその手を止めた。
「知らないの?青アザって、見た目と違って痛くないんだよ」と肩を回して見せた。

ビート板を使ってのキック練習をバタフライ、平泳ぎ、クロール毎に二十五メートルを二本ずつ、クロールの流しを五十メートル一本、同じく背泳ぎを一本終わると、みんなプールサイドに上がり、毎月一回行われるタイム測定が始まった。今回は二百メートル個人メドレーを計った。肩は痛んだけど、なんとか前回よりタイムは縮まった。綾も記録を更新できたみたいだった。

練習が終わると素早く着替えて、自動ドアの外の邪魔にならないところで大きく伸びをした。右肩をかばいながら腕や肩の柔軟体操をしていると、ほどなくして綾も出てきた。
「メドレー、早かったね」綾は目を細めて言った。
「綾もね」
「絶対追いついてやるから。じゃあね」と、お腹のあたりで小さく手を振った。
「うん、じゃあね」僕もそれに倣った。
綾は駐車場で待っているお母さんの車に乗り込み、帰って行った。

僕は十分程かけて家の近所のスーパーまで歩いた。食堂でソーキそばを頼むと、おばちゃんが「売れ残ったやつだから」と言って、いなり寿司を二個つけてくれた。

三学期が始まってから父は食事を作ってくれなくなった。お金もないので、しばらく給食だけで過ごしていた。クラスで休む人がいたら、余ったパンをもらって、土日に食べた。誰か病気になって休んでくれないかなと考えては、友達に対して何て事を考えるんだ、僕は結局自分が一番大事なのかと自己嫌悪に陥ったりした。その様子に盛隆先生が気付いたらしく、真一さんが家に来て、封筒をくれた。中身は三万円だった。見た事ない大金を眼に、僕は硬直したけど、「これでちゃんと、ご飯を食べなさい。お金のことがお父さんにバレたら取られるだろうから、気をつけなさい」と諭すように真一さんに言われ、頷いた。本当はご飯も炊けるし、味噌汁や卵焼きくらいなら作れるけど、家で作るとお金があるって分かってしまうかもしれないから、食堂に通うのが日課になった。

ソーキそばといなり寿司を平らげ、おばちゃんにお礼を言って店を出た。僕の身体は、色んな人の優しさで作られているんじゃないかと考えながら家に帰った。今日は、女の人が来ていた。シャワーを浴びて洗濯を回し、その間に宿題を済ませた。洗濯物を干して、部屋に戻り読みかけの灰谷健次郎の太陽の子を開いた。

しばらくすると向こうの部屋で、女の人が猫みたいな声を出し始めた。僕は机に突っ伏して、耳を塞いだ。このまま平手で耳を叩けば、鼓膜が破れて聞こえなくなるかなぁと考えたり、耳なし芳一の話を思い出し、耳以外に念仏を描いたら、何者かが耳を持って行ってくれるかなと想像したり、そしたら友達と話せなくなって困るな、でも綾だったら手話とか覚えてくれそうだな、手話の勉強しとこうかな、と考えているうちに、いつの間にか眠っていた。寒さで目が覚めて、音がしないように気を付けながら布団を敷いて、カーテンを開けたまま再び眠りについた。部屋に差し込む朝陽で目を覚まし、顔を洗って着替えを済ませ、静かに家を出た。

結んで開かず(十)綾2

三学期最初の委員会の会議の為、放送室に向かっていたら「喜一!」と誰かが後ろからぶつかって来た。見なくても、綾だと分かった。いつだったかお互いの誕生日の話になり、僕が3月生まれで綾が4月生まれだったので、学年は一つ違うけど歳は一か月しか変わらない事が判明し、その日から綾の君付けが無くなった。
「あれ、委員会は?」
「三学期から放送委員になりましたっ」綾は踵を揃えて敬礼の仕草をした。「先輩、よろしく」
「思ってないくせに」
敬礼したまま、綾はイヒヒと笑った。

スタジオに入ると他のみんなは集まっていて、嘉納先生の司会で会議は始まった。新しく委員会に入ることになった五年生三人の紹介と、その三人を含めて三人一組を三組作るくじ引きをした。僕は靖と、五年生の男子の幸翼と組むことになった。その他に活動内容として、卒業式までの準備や卒業生に対する心境などのインタビューをドキュメンタリー方式でまとめる事と、三月に行われる来年の新一年生との親睦会の取材や、それらの人員配置、大まかなスケジュールの話し合い、確認が行われた。

会議が終わると、僕は「今日一緒に帰ろっか」と綾を誘った。引越しの事を話しておきたかったからだ。綾は少し驚いた様子だったけど、すぐに「いいよ」と受けてくれた。

今日の会議の事を、声を弾ませながら喋っている綾を見て、そういえば二人きりになるのは初めてだなと、照れ臭さを含んだ緊張で身を固くして歩いた。綾が放送委員会に入ったことで、また一つ、僕の世界と綾の世界が重なったなと思い、そしてそれを結んでくれるのはいつも綾だったなと感じ入る。天文クラブやスイミングスクールでも、いつも綾の方から話し掛けてくれる。今だってそうだ。それにしても、今日の綾は良く喋る。話は冬休みの宿題に移っていた。
「それでさ、読書感想文書いてなかったから、」
「あ」
「うん?」
「あ、いや、本、返さなきゃと思って」
「図書室?」
「うん。冬休みだからまとめて借りてて」
「本、好きなんだ?」
「うん、まぁ。あんまり読めなかったけどね。あの、オレさ、」
「ん?オレって言う事にしたの?」綾は笑いたいのを堪えているみたいだった。
「あ、うん。なんだよ」恥ずかしさの裏返しの強がりで答えた。
「んーん。オレさ、なに?」
「うん、卒業したら、引っ越す事に、なったんだ」どういう感情で喋ればいいのか分からず、言葉を探り探り、ゆっくりと話した。
綾は表情を固めたままで何度かまばたきをしてから少し俯き、独り言のように呟いた。「なんだ、そんな話だったの」
「あ、うん、ごめん。あのさ、なんていうか、忘れないよ、綾の事。観測会の時にさ、」
「待って」綾の表情は強張っていた。その声も。「聞きたくない。ごめん。帰る」言うが早いか、綾は走り出した。僕は見送る事しかできず、帰るって言ってもこの後スイミングで会うし、どうすればいいんだよ、と途方に暮れた。

家の鍵を開けてドアノブを引っ張ると、ガシャンとびくともしなかった。鍵は開いていたのか。という事は、父が居るのか。父は仕事がある日とない日があるのか、居たり居なかったりだった。何の仕事をしているのか、そもそも仕事をしているのかも知らないままだったなと考えながら、今度は静かに鍵を回した。

出迎えたのは真一さんだった。父は居なかった。
「お母さんに頼まれてね。荷物取りに来た」
「そうなんだ」
真一さんは冬休みの間にも何度か家に来たらしく、兄と妹の学習机はすでに運び出されていた。まだ慣れることができない、少し広くなった子供部屋に入り、ランドセルの中身を入れ替えて、明日の準備をした。
「段ボール持って来てるから、少しずつ荷物まとめときなさい」
「うん」

僕の周りに、少しずつ、何かが近づいてくる気がした。立ち向かってもどうにもならない何か。色んな事を諦めなきゃいけない何か。逃げることもできない何か。兄妹の机があるはずのスペースが、部屋に置かれている空の段ボール箱が、それを呼び寄せている。

自分で道を切り開くこともできない。全て後手後手に回り、その後で自分に出来る事を探すしかない。やりたい事じゃなく、出来る事をするしかないんだ。

綾に対してどうすればいいのか、何と話しかければいいのか結局分からないままだったけど、分からないけど、来るのを待っておこうと思い、スイミングの準備をして「プール言ってくる」と真一さんに声を掛け、いつもより早めに家を出た。

入口の自動ドアの外から、受付の横の柱に掛かっている大きな時計を覗いた。あと十分で体操が始まる。今日は休むのかなと諦め、自動ドアをくぐると、後ろから綾が走って来た。
「あれ、喜一も遅かったの?」
「あ、いや、あの、さっきはごめん」
「んーん。なんで、こっちこそ、ごめんね。行こっ。遅れちゃう」
「うん」
僕たちはそれぞれ、更衣室に向かって駆けた。

結んで開かず(九)真一

冬休みが近付き、教室のロッカーに置いていたリコーダーや鍵盤ハーモニカ、習字道具などを小分けにして持って帰っている。家に帰っても母はいないから、ちょっと憂鬱だ。

母は僕が修学旅行の時に入院して手術した。乳癌だったらしい。ほどなく退院して、またスーパーで働いていたけど、今度はお腹の子宮ってとこに癌が見つかった。最初の時と違って、治療に時間がかかるらしく、体力面と精神面を考えて、母の実家がある隣の県の病院に入院した。隣といっても、海で五百キロも離れているから、心配だ。冬休みには、兄弟三人で母の実家に泊まりに行くことになっていた。

家の事はまだクラスで誰も知らない。盛隆先生はたぶん知っているだろうけど、みんなの前でも言わないでいてくれている。

その日家に帰ると、女の人の声が聞こえた。食卓で父とお酒を飲んでいた。知らない人だった。父は帰宅した僕を見つけ「挨拶せんか」と言った。形も声も父のものだったが、僕の知らない人だった。女の人は「いいのいいの。ごめんね、お邪魔して」と言って、僕の頭を触ろうと手を伸ばした。僕は反射的に身を引いて、その手を避けた。その日はすぐに帰ったようだったが、そのうち、家に泊まるようになった。

冬休みになり、母の病院を訪ねた。元気そうだったが、薄いニット帽を被っていた。病気になる前からニット帽は使っていたけど、襟足から延びる髪の毛が、今はない。僕は知っているんだ。それは、抗がん剤とか、放射線治療の副作用だ。つまり、手術では治らない癌なんだ。僕は、家に知らない女の人がいることを言うべきか迷ったが、元気に振る舞う母を見て、僕も心配させないために元気に振る舞おうと考えた。だけど、兄が、その話を、切り出した。母は、苦労かけてごめんなさいね、と謝った。「お母さんは、何も悪い事、してないじゃん」と言うと、母は手を伸ばし、僕の頭を撫でた。それは強く、やさしい、紛れもなく、母の手だった。

数日後、兄と美香と空地で野球をしていたら、母のお兄さんの真一さんがやって来て、そのまま隣町の真一さんの家に招かれた。真一さんはゴルフの練習場を営んでいて、家は三階建てで、地下室と屋上もある。この屋上で何度か、夏に近くで行われる花火大会を眺めたことがあった。僕たち三人は、居間の大きなテーブルに並んで座らされた。何か良くない話だというのは察しがついたが、内容はこうだった。三学期からは真一さんの家に住んで、近くの学校に通うこと。必要なことは全部真一さんがするので心配はいらない事。子供部屋にあるもの以外でこっちに持ってきたいものがある場合は、書き出して真一さんに渡す事。

僕は最近、兄の影響で野球に興味を持ち始めていた。観測会以来、綾との関係も急速に近くなってたし、このまま付き合えればなぁと思ってたし、甲子園常連の水産高校は家の近所だし、中学で野球部に入って上手くなって、水産高校に行って、兄弟で甲子園に出場して、一番に綾に報告して、それか、中学では水泳部に入るのもいいと思うし、そしたら僕が二年になったら綾と一緒に同じ水泳部で競い合って、メドレーで2分切って、オリンピック行くのもいいし、とにかく、僕には、思い描く未来があるんだ。
「友達も居るし、向こうでやりたいこともあるし、転校は、嫌だ」体の中で何かをねじりながら出した声は、掠れていた。
「もうすぐ中学生になるんだろ。もう大人なんだから聞き分けなさい」真一さんの声は、その性格と同じく、堅かった。

大人には夢をかなえる力があると思ってた。子供にはない力が。だから、早く大人になりたかった。だけど、大人だから諦めろという。じゃあ、夢は、いつ叶うのだろう。大人って、一体なんなのだろう。また勝手に転校とか決められて、散々子ども扱いされた挙句、大人なんだからって、一体僕は、なんなの?今の状況で父のもとに戻っても、母に心配かけるだけだって分かってる。でもみんなとこのままお別れなんて、出来るわけがない。

それから真一さんと何度か話し合った結果、兄と妹は、このまま真一さんのところに住み、僕は一度戻って、卒業してからこっちに来ることになった。それから母の見舞いに行き、結果を伝えて「わがまま言って、ごめんなさい」と言うと、母は僕の腕を掴み、引き寄せ、ハグをした。「いいの。お友達は大事にしなさい」生まれて初めての、そして最後のハグだった。

結んで開かず(八)綾

「では黒板に書いた班ごとに座り直してください」
十個に分かれた班の一つは、僕が班長だ。といっても、班員は一人だけだけど。黒板を見て、その名前を確認した。大津綾。六年生はみんな班長だから、五年生か四年生の女子だろう。僕の班に割り当てられた、視聴覚室の左後ろの席に向かった。

今日は天文クラブの観測会だ。転校してきて、クラブ活動をどれにするかというのは重大な問題でもあった。途中で変更もできないし、どんなに嫌いな人がいても、一年間我慢しなくちゃいけない。これが勝手に決められたクラブだと、諦めもつく部分があるけど、自分で決めたとなると、なんでこのクラブを選んでしまったのだろうと自分を呪い、後悔することになる。一週間に一度の四十五分間だけど、なるべくストレスになることは避けたい。今まで通り無難に将棋かな、とぼんやりクラブ一覧を眺めると、天文クラブに目が留まった。星座と、それにまつわる神話が好きだったからだ。元々は、星座をモチーフにした鎧を着るヒーローアニメから始まり、黄道十二星座北極星、明けの明星、宵の明星の金星など、さらにはポアンカレ予想にも興味は波及していた。好きな事を学べるなら、苦手な人が一人や二人いても気にならないだろうと思い、天文クラブに入った。

入って気づいたんだけど、顧問は放送委員会と同じ嘉納先生だった。これはついてる、と思った。知っている先生の方が安心できたし、嘉納先生は僕の好きな先生のひとりだったからだ。

クラブ活動初日、先生はみんなに春の星座はどんなのがあるか、と質問した。「おおぐま座」「そうだね」「かに座」「そうだね」「カシオペヤ」「カシオペヤのM字もまだ見えるね」「オリオン座」「オリオン座もまだ見えるけど、カシオペヤと同じで、冬の星座に入るね。先生はオリオン座を見ながらオリオンビールを飲むのが好きだけどね」先生が笑い、みんなも笑った。
「ところで、オリオン座は何で冬しか見えないか知ってる人いる?」みんなは少し上を向いて、星空を思い浮かべて考えているようだった。先生はその様子を見て「これには神話があってね」と続けた。「オリオンは美しく勇敢な戦士だったんだけど、小さなサソリに刺されて死んじゃったんだ。それ以来、さそり座が出る夏になると、オリオンは怖がって地球の反対側に逃げてしまうようになったんだ」それを聞いたみんなは目から鱗どころか、目から星座が飛び出るほど感嘆の声を上げた。この話で僕の心は鷲づかみにされて、次はどんな話を聞かせてもらえるのかとクラブの時間が待ち遠しくなった。時には先生の子供の話も聞いた。夜空に青白く輝く六連星のように、清澄に育ってほしいという意味で昴と名付けという話や、他にも様々な星座や星、超新星爆発ブラックホール、簡単な相対性理論や研究施設のセルンの話など、僕にとっては心と一緒に脳みそも踊りだしそうな話をたくさん聞かせてくれた。

そうやって先生の話に熱中するあまり、同じクラブ員の顔など、一人として覚えていなかった。だから、大津綾という名前を見ても、誰の顔も思い浮かぶはずなく、先に席に座っていたその顔を見ても、やっぱり初めて見る顔だと思った。それでも、4月からずっと同じクラブで、同じ活動をしてきたんだし、初めましては変かなと思い、「あ、どうも」と曖昧に頭を少し下げた。綾も「あ、どうも」と応え、イヒヒと少しいたずらっぽく笑った。そのしぐさが、とても幼く見えた。

観測会の今日は土曜日で、昼で下校し、それぞれ夕食をとった後に十九時に集合した。「では、一班から順番に屋上に上がって下さい。班長は、後ろの棚から望遠鏡を持って行ってください」嘉納先生が言い終わると、視聴覚室の右前に座っていた数人が立ち上がった。

僕は十班だから、教室をでるのは一番最後だ。順番が回ってくるまでの間、ほとんど初対面の下級生の女子と二人で待っているという、この時間の気まずさといったらなかった。何か話した方がいいのだろうかと、もやもやしているうちに、結局何も言わないまま屋上に上った。

それぞれの班が思い思いの場所で、二百倍の屈折式望遠鏡を組み立てていた。僕は人通りがあると嫌なので、出入り口から一番離れた場所に望遠鏡のハードケースを下し、膝をついて組み立てにかかった。
「手伝おっか」という綾の声に応えようとそちらを向くと、綾の顔が想像以上に近くにあって、びっくりして尻もちをついた。綾はイヒヒと笑った。二重瞼で切れ長のその目を見て、美雪を思いだしドキッとした。美雪の事は、彼氏もできたみたいだし、とうに諦めがついていたけど、どうやら僕は、切れ長の目が好きなのかなと思った。「びっくりした?」屋上に吹き降ろす秋の風が、綾の長い髪の毛をサラサラと洗った。幼いと思っていた女の子が、急に大人っぽく見えた。その合間に見え隠れした首元を見て、僕はあれ?と思った。
「もしかして、ラジオ体操一緒だった?」
「え、今更?」綾は、今度はフフフと笑った。僕はなにか悪いことしてしまったという気持ち半分と、恥ずかしさ半分で顔を赤くしながら「ん、ごめん」と小首を垂れた。
「いや、謝らなくていいけど」フフフ「じゃあもしかして、もう一か所、喜一君と会ってる場所あるけど、それも気付いてない?」
「もう一か所……」僕の行動範囲なんて知れたものだし、その狭い範囲のどこに居たのだろうかと記憶をたどってみるけど、思い当たらない。
「じゃあヒントね」綾は、なにか重大な秘密を打ち明けるように、僕の耳元で「火曜と金曜」と囁いた。
「あっ……え、うそ、スイミング?」
「ポンピーン!」綾は無くなっちゃうんじゃないかと思うくらい目を細めて笑った。
「え、あの速い子だよね」
「喜一君よりは遅いけどね」

僕は僕が認識している人のことしか考えられなかったけど、意識していない人達にだってそれぞれの暮らしがあって、夢があって、そして、生きているんだ。僕が見ている世界意外にも、人それぞれ見ている世界があって、人の数だけ世界がある。それがこうやって、所々で交わることなんて、奇跡に近い事なんじゃないだろうか、と大きなことを考えてみたりもした。
「何でもっと早く教えてくれなかったの」
「知ってると思ってた」綾はまだ笑い足りないらしく、クククと息を漏らし、続けた。「気付くでしょ、普通」
「いやぁ、まぁ、髪型も違うし」
「スイミングの時はお団子にしてるからね」綾は何度か手櫛を入れながら言った。その仕草は大人がするやつじゃん、とドキドキしながら、細くてさらさらと揺れる髪の毛を見て、触ったら気持ちよさそうだとしばらく見とれてしまった。
「あ、ほら、組み立てよ」綾は少し照れたように三脚を手に取った。「喜一君は、育成コース行かないの?」
「あ、うん。うち、お金ないから」
「そっかぁ。一番速いのにね」
「まぁ、しょうがないよね」
「卒業するまでは続けるんでしょ?」

卒業と言う言葉が、僕の頭を鐘みたいに、ゴーンと叩いた。そうか、もうすぐ二学期も終わって、三学期も三か月で終わって、僕は中学生になるのか。早く大人になりたいと気持ちは急くけど、まだ今のままで居たいなんて想いもある。
「そうだね。もっと速くなりたいしね」
二人で望遠鏡を組み立てながら、綾が小さく「よかった」と言ったのを聞いた。

僕は初めて土星を見た。土星の環は隕石などが集まってできていると聞いていたので、ぼやけて光っているのかと想像していたけど、くっきりと、白く、光っていた。僕は綾と代わるがわる、何度もレンズを覗きこんだ。