大切なこと(でもかんたんなこと)

こんにちは(おはよう?それともこんばんは?)

お元気ですか?わたしは元気です。

とつぜんですが、今日は一つ、大切なお話をしたいと思います。

でも安心してください。かんたんなことです。

あなたはこれからたくさんのマンガや本を読むことになると思います。

そしてたくさんの絵を見るでしょう。

たくさんの動物や植物を知るでしょう。

たくさんの人と出会うことでしょう。

その中で自分の考え方がひっくり返ることもあると思います。

そのとき、すごくこわくなるかもしれません。

でもだいじょうぶです。

あなたのことはわたしが見ています。

だから、自分がやりたいと思ったことをやりましょう。

でも、ちょっとでもやってはいけないと思うことはしないこと。

それだけで、心のもやもやがなくなります。

それを、信念(しんねん)といいます。

ひとことで言うと

自分が正しいと思ったことをやる。

ね、かんたんでしょう?

 

 

結んで開かず(完)喜一6

二中には入学というかたちだったけど、引っ越してきたばかりなので中身は転入とおなじだった。入学式が終わりそれぞれの教室に入る時も、小学校からの友達なのだろう、仲の良いもの同士、何組かに固まっていた。先生が入ってきてHRが始まり、「春休みの思い出や中学での目標なども含めて自己紹介していきましょう」ということになった。

出席番号順に座っているその場で立ち上がり、一人一人発言する度に周りから笑いが起きたり、はやし立てたり、ヤジが飛んだりした。僕は全員と初対面なので、その雰囲気に乗ることはできなかったけど、その中で一人だけ、気になる生徒がいた。これからは、生徒なんだ。児童じゃない。その生徒は瀬戸口といって、春休みに水泳の大会で優勝して中学でも水泳部に入るつもりだと、一際大きな声を教室に響かせた。そうか、ということは、一年生で一番速いのはこの生徒か。僕より頭二つ分は背が高く、真っ黒に日焼けした顔は、目と歯が妙に目立っていた。

発表の順番が僕に回ってきた。中学の目標ならまだしも、春休みの思い出なんて、住む環境が変わったばかりで、思い出もなにもない。六組のみんながお別れ会を開いてくれたのは嬉しかったし、これからも忘れないだろうけど、それを新天地で発表してもみんな困るだろうと思い、桜島に行った話をした。すると斜め前に座っていた女子がプッと吹き出し桜島って」と誰かと目くばせしながらクスクスと笑った。不穏な、嫌な感じのする笑い方だった。

HRが終わると、掃除の時間になった。僕は前の席に座っている男子に話しかけた。名札を見ると、江口と書いてあった。
「雑巾がけってバケツ使うの?」
「いやー、俺も分からん」
「あ、そっか。あっちの水道で洗えばいいのかな」
「どうだろうね」
と、その後も江口と二人で行動していた。そのうち会話もなくなり、なにか話す事ないかなと思案し、そういえば裕美が二中に来るはずだったのではなかったかと思いだした。聞いてみると、知らないと言う。続けて、二中は二つの小学校から上がってきてるから、中原台小学校の方なのではないかと言い、近くにいた女子に「台小?」と聞いてくれた。
「そうだけど」と振り向いたのは、さっきクスクス笑っていた女子だった。「台小だけど、なに」と少し高圧的にこっちを見た。名札には福島とあった。
「あ、いや、裕美知ってるかなと思って。国東裕美」
「くにさき……ああ、知らない。いたっけ、そんな子」福島はクスクス笑った。
「ほんとに知らない?」

福島は「知らないよ」と突っぱねて「みんな知らないんじゃない」とまた、クスクス笑った。この感じは、見下しているんだ。自分より劣ると思ったものを笑いものにする目だ。僕の事ならまだしも、福島の視線の先に見えているのは、裕美だ。僕は裕美の、影に逃げ込むような力のない笑みを思い出した。裕美にあんな目をさせたのは、この女子か。
「おまえ」僕はどうしようと考える前に、福島に向かって一歩踏み出していた。
「なんなの」福島は低い声で睨み返してきて「近寄らないで」と両腕をそれぞれ違う方の手でさすりながら、一歩退がった。

腹から何かが込み上げて、心臓をふつふつと沸き立たせ、温度を上げた血液が全身の筋肉を震わせた。怒りを自覚したのは初めてだった。耳のすぐ傍で自分の鼓動が聞こえる。手を上げるわけにもいかず、発する言葉もない。

空気を察したのか、江口が「机、前に引こうぜ」と袖を引っ張る。でも、ここでうやむやにしたくなかった。引きたくない。

にらみ合う僕と福島の間に割って入ってきたのは、瀬戸口だった。瀬戸口は僕の詰襟を両手で持ち上げ、前後に揺らしながら
「わい、あんまはまんなよ」と歯をむき出しにして言った。この男もそっち側なのか。
「なんて?」僕は言い返す。というか、本当になんて言っているのか分からなかった。
「調子に乗るなって意味」瀬戸口の背中から福島がクスクス笑う。

僕は争いごとが嫌いだ。僕が我慢すればその場が丸く収まるなら、喜んでそうする。この先もこの学校で生きていかなければならないし、なるべく平穏な生活をしたい。綾との約束を果たすため、瀬戸口と同じ水泳部に入らなければならない。瀬戸口とは仲良くなっておいた方がいいかもしれない。だけど、友達の事となると話は別だ。どうする?僕は、拳をぎゅっと握った。どうするかなんて
「決まってる!」
吠えるように放った僕の声に、瀬戸口の背筋が一瞬ピクリと伸びた。同時に襟元をねじり上げている手も緩んだ。僕はその手に、思いっきり噛みついた。

 


         結んで開かず(完)     花村 由

結んで開かず(十五)喜一5

お別れ会が終わると、そのまま真一さんに連れられて飛行機に乗った。真一さんは母の兄で、僕をわざわざ島まで迎えに来てくれたんだ。

今日で友達みんなと別れなければいけない寂しさと、その事を自分ではどうすることもできない無力感を、訴え嘆く対象も見つからないまま、自分のうちに閉じ込め、それがまた行き場の無い怒りとなり、僕の手足をわなわなと震わせた。物凄い速さで小さくなってゆく島を飛行機の窓から眺め、もう来ることは無いかもしれないという感傷に浸りながら、一方では、やっと父と離れられるという安堵と解放感で胸を撫で下ろした。それと同時に、友との別れより己の束縛からの解放を喜ぶのかと罪悪感が湧き出し、整理できない感情の渦に巻き込まれて、息も絶え絶え、混乱と放心を繰り返した。

飛行機が空港に着くと真一さんのデボネアの助手席に座り、この一年の事を思い返していた。十三年しか生きていない僕にとって、そのうちの一年はあまりにも速く過ぎ去ってしまった。一人で生きていけると信じていた僕に初めて友達ができた。好きな人もできた。だけど、母は病気になった。両親は離婚するのだろうか。したほうがいい。そんなことを考えていると真一さんが運転する車は桜島に入り、祖父母の家があったという場所で止まった。

今は真一さんの経営するゴルフ練習場の倉庫に建て替わっている。車を降りると県道越しに海が見え、倉庫の裏手には黒いスポンジのような岩がゴロゴロしている。噴火で吐き出された火山岩だと真一さんに聞いたことがある。僕が初めて来た時にはすでに倉庫になっていたので、元はどんな家が建っていたのかは知らないし、祖父母の記憶もない。海と火山という暴力的な一面を持った自然に挟まれた生活は、どんなものだったのだろうと想像したことがあったけど、僕だったら壁一枚隔てた外に溶岩で出来た岩が転がっていると思うと、夜も眠れないんじゃないかと思った。

倉庫の裏から続く車では入れない細い道を5分ほど上ると、きれいに磨かれた石で区切られて墓石が立っている。登ってきた道を見下ろすと、倉庫の屋根が西日に染まっている。その先に錦江湾とそれを挟む大隅半島薩摩半島があって、遠くには開聞岳が見える。真一さんの先導で倉庫から持ってきたバケツと雑巾で墓石の汚れを落とし、ほうきで落ち葉を集めた。線香を焚き、卒業の報告をしなさい、と真一さんは手を合わせる。僕は墓参りとか、仏壇に線香をあげるのが苦手だ。会った事もない祖父母や先祖様と何を話すのか。報告しろと言われても、その対象のイメージもはっきりしないから空中に向かって話しかけてるみたいだし、いつ終わっていいのかも分からない。したがって、手ごたえもない。祖父母や先祖様のお陰で僕も今、生きていることは分かっているし、普段の生活の中ででも、ふと考えることもある。死んだ人たちが仏様になって空から見守ってくれているんだったら、その事にも気付いているはずだし、わざわざお墓の前でこれ見よがしに手を合わせる必要があるのかなと思う。かと言って何もしないわけにはいかず、真一さんに倣って手を合わせた。卒業できました。祝ってくれなくていいので、お母さんを治してあげて下さい。

結んで開かず(十四)喜一4

式次第は順調に消化され、卒業式は滞りなく終わった。来てくれた真一さんとの記念撮影が終わり、六組のみんなと写真を撮ろうとあたりを見渡していると、盛隆先生に職員室に来るように言われた。

真一さんと別れ、職員室に向かうと、これまでみんなで作成してきた卒業文集が印刷屋から届いているので、中身をチェックして欲しいと言われた。段ボール二箱分の卒業文集をパラパラとページをめくり、抜けがないか一冊一冊目を通した。それが終わると、盛隆先生と副担任の先生と僕で手分けして文集を教室まで運ぶことになった。HRにずいぶん遅れてしまったけど大丈夫なのだろうかと段ボールを抱えて教室に入った。その瞬間、僕は息をのんだ。折り紙で輪を作ってそれを繋げた飾りが教室中に張り巡らされていて、机は班をつくっていくつかにまとまって、その机の上にはお菓子や紙コップが並べられ、黒板には、喜一お別れ会、とでっかく書いてあって、その周りにみんなの寄せ書きや、昇のイラストが所狭しと踊っていた。僕は一瞬、体の力の入れ方を忘れ、段ボールを落としそうになった。振り向くと、
「みんなから頼まれてね」と盛隆先生がシーサーのような顔をほころばせて頷いた。尾関が司会をして、浩哉が一発芸を披露し、秋博が盛隆先生のものまねをして、美雪が笑い、裕美が手を叩いた。最後に、みんなで六年六組の歌を歌った。永遠なんて信じていなかったけど、ずっと友達だ、というみんなの言葉は信じれた。

 

結んで開かず(十三)綾3

僕が通っているスイミングスクールは、プールサイドが広くて、そこで練習前の準備体操をすることになっている。その時僕は、窓に映る自分を見て身体のチェックをする。両手を真っすぐに上に伸ばして自分の手を握り上体を傾ける運動の時、広背筋に押し出された肩甲骨が、脇の横に魚のヒレのように張り出すのを見て、満足する。

速く泳ぐためには、綺麗なフォームと筋力アップが必要だ。当たり前だけど。そして、クロールと背泳ぎは、キックだけよりも腕だけの方が速い事に気付いていた。メドレーで考えた時、バッタ、バック、平、クロールの内、キックが重要なのはバッタと平、水をかく力が必要なのは四種共通ならば、上半身を鍛えた方が手っ取り早くタイムは縮むと考えた。週四時間しかない練習時間を有効に使うため、バッタと平のキック練習は真面目に取り組んだけど、バックとクロールのキック練習は力を抜き、その分の体力を腕に回した。流し練習でも、下半身は力を抜き、浮力を失わない程度に腰の回転だけに任せて、なるべく腕の筋力だけで泳いだ。負荷をかける為に息継ぎの回数を減らしたりもした。その甲斐あってか、満足のいく記録を残せるようになった。

練習時には一級の数名が、コーチの合図で十秒ごとにスタートすることが多く、つっかえないように、速い人から順番に泳ぐことが決まっていた。たいていの場合僕が一番初めに泳いでいた。二番目に泳ぐのはその場その場で入れ替わっていたけど、いつの頃からか、綾が二番目に定着するようになった。と思っていたら、綾はぐんぐんと速くなり、練習でも僕の後ろから食らいつくように追ってきていた。そのお陰で発破をかけられ、僕も練習に身が入った。お互い口には出さないけど、競い合い、励ましあった。

過去形。そう、それも今日で最後。もうこのスイミングスクールで泳ぐこともないだろう。綾と泳ぐのも、恐らくこれで最後。になるのだろうか。この先も水泳を続けて行けば、いつかまた一緒に泳げるような気もする。お互い大人になって、自分の道は自分で決めれるようになれば、きっとまた。綾は今日も変わらず力強い泳ぎを見せ、プールの水を弾けさせた。

練習が終わるといつものように早めに着替えをすまし、出入り口近くで柔軟体操をしていた。右肩をほぐしていると、綾が出てきた。綾は僕の正面でカバンから何かを取り出し、差し出した。ジップロックに入れられた本のようだった。
「これ。濡れたら困るから」
水着やタオルで濡れないように考えたのだろう。僕はそれを受け取った。
「詩集。ロマンス。たまには、わたしの事も思い出してよね」綾は目を細めて言った。
「あ、うん。何で、知ってるの?」
「女子には色んなネットワークがあるの」綾はいたずらっぽい笑みを浮かべたけど、声は出ていなかった。確か、誰かも同じようなことを言っていたと思い、記憶をたどった。そうだ、裕美だ。そういえば、詩集の話もしたかもなと思いだし、気持ちを伝えた方がいい、と言っていたのも裕美だったなと思い出した。綾に気持ちを伝えるかどうかは、この二か月ちょっと、ずっと考えていた。どうしたらいいのか分からなかったし、選択肢が狭められた中、どうしたいのかもわからないままだった。でも伝えるなら、今しかない。今が、ラストチャンスだ。僕は背筋を伸ばし、綾の瞳を見た。
「ありがとう。大事にする。あのさ」
僕たちの間に、数滴の雨粒が落ちてきた。
「オレ、綾の事、前から」
「いいの」綾は視線を僕のつま先に落とした。「知ってる。わたしもだから。てゆーか、わたしの方がもっと前からだし」綾の顔から笑みは消えていて、荒くなる息をゆっくり整えながら、眉と口を八の字にし、その瞳は助けを求めるように真っ直ぐ僕を見たかと思うと、すぐにまた下を向いた。そして大きく息を吸い込みながら向き直った。僕はその息遣いひとつひとつを、失くさない様にすくい上げて両手で包んだ。
「わたし、喜一より速くなるから。速くなって、有名になる。そしたら、」雨が降り始めた時のアスファルトの匂いが、なにか悲しい思い出を呼び起こすように、僕の中で震えた。
「そしたら、わたしの事、」綾は両手で顔を覆い、続けた。「忘れないよね」込み上げてくる何かを必死に抑えているように、少し震えた声だった。雲は、落とす雨粒を増やして、綾の小さな肩を濡らし始めた。
「忘れないよ。オレも有名になるから、忘れるな」
「うん」綾は下を向いたまま頷き、そのまま駐車場に向かって駆け出した。雨粒が白い斜線のように、綾を少しずつ霞ませた。

綾のお母さんは車の外で傘をさして待っていて、綾を助手席に乗せると、こちらに向かって深くお辞儀をした。ぼくはびっくりして、それに倣った。

卒業式の前日の事だった。

結んで開かず(十二)裕美

借りていた本を返しに図書室に来た。返却カウンターに座っていたのは、三学期に僕のクラスに転入してきた裕美だった。
「あ、図書委員だったの?」
「うん。先生に頼んでしてもらった」
「そうなんだ。あ、そういえば、今ちょっといいかな」
「うん?うん。誰も居ないし」
「裕美さ、K市から来たんだよね」
「うんうん」
「オレ卒業したら寿町に行くんだけど、どのへんだった?」
「へー、そうなんだ。じゃあ二中?」
「うん」
「わ、じゃあすごい近くだよ」
「お、まじ?なんかすごいね。入れ替わりみたいな」
「あは、そうだね」
「じゃあ友達とかどんな感じだった?」
「あー、うーん。そうだなぁ」裕美は目線を下げて、その口元は力が無く、辛うじて笑みを保っているように見え、前髪に隠れてしまった目は、影の中に逃げ込んだかのようだった。あまり過去の事を話したくないのだろうか。
「まぁ、行ってからのお楽しみだな。こっちにはもう慣れた?」
「うん。みんなやさしいし」
「だよね。オレも転校してきたんだけど、なんか、みんな会った瞬間友達、みたいな感じでびっくりするよね」
「うんうん。わかる。思ってたのと全然違くて。いい方にだけど。うーん、私を縛っているものは、観念なのだから、みたいな」あはっ
「あ、知ってる。それを一打のうちにときはなってくれる力を持つ。でしょ」
「わ、すごい。何で知ってるの?」
「いや、まぁ読んだことがあって」
「男子で珍しくない?」
「え、なんだよ。いいじゃん別に」無意識に口を尖らせてしまった。
「あは、うんうん、いいけど。じゃああれだね、噂の彼女に借りたのかなぁー?」
「え、なにそれ、いないよ」
「あれ、そうなの?五年生の女子と」
「あ、いや、付き合ってはないけど」
「はないけどぉー?」
「なんだよ、いいじゃん」
「告っちゃえー」あは
「なんでそうなるんだよ、いいだろ、うん、ほら、オレ居なくなるし」
「あー、気にしなくていいんじゃない?」
「そうなの?だって、ほら」
「んー、その子の事は知らないけど、言われたら嬉しいんじゃない?多分。よっぽど嫌いじゃない限り。うん」
「うーん、てか、噂って何?誰から?」
「あは、女子にはねー、ネットワークがあるんですー」
「なにそれ、怖えーな」
裕美があはっと笑うと、ガラガラと図書室の戸が開いて、本を持った女子が入って来た。
「あ、じゃあ、それ、返却しといて」
「うん、しとく」
僕は足早に図書室を出た。

結んで開かず(十一)喜一3

準備体操が終わりシャワーを浴びて、プールサイドを歩いていると、
「肩、どうしたの」と綾が話しかけてきた。

学校では服で隠せても、スイミングの時はそうはいかなかった。

昨日の夜は女の人が家に来なかったので、父と二人だった。なるべく顔を合わせないように、部屋で本を読んでいたけど、トイレに立った時に、捕まった。お前は根性がなってないんだ、思い通りになると思ったら大間違いだぞと、酔って呂律が回らない口で言い、柔道を教えてやる、と言って僕を何度も床に投げつけた。投げる度に、馬鹿が、お前が悪いんだ、早く出て行け、と唾を飛ばした。力では勝てないし、抵抗しようものなら、反抗したなと、もっと酷い事になる。止めてくれる人もいない。父が疲れるまで、耐えるしか無かった。僕は、そう簡単に出て行ってやるもんかと、何に向かって意地を張っているのかも分からないまま、ギリリと歯を噛んだ。

「友達と相撲してたら、ハッスルしちゃって」と誤魔化した。綾は、僕の右肩に出来た大きな青アザを突こうとしたけど、
「痛そう」と言ってその手を止めた。
「知らないの?青アザって、見た目と違って痛くないんだよ」と肩を回して見せた。

ビート板を使ってのキック練習をバタフライ、平泳ぎ、クロール毎に二十五メートルを二本ずつ、クロールの流しを五十メートル一本、同じく背泳ぎを一本終わると、みんなプールサイドに上がり、毎月一回行われるタイム測定が始まった。今回は二百メートル個人メドレーを計った。肩は痛んだけど、なんとか前回よりタイムは縮まった。綾も記録を更新できたみたいだった。

練習が終わると素早く着替えて、自動ドアの外の邪魔にならないところで大きく伸びをした。右肩をかばいながら腕や肩の柔軟体操をしていると、ほどなくして綾も出てきた。
「メドレー、早かったね」綾は目を細めて言った。
「綾もね」
「絶対追いついてやるから。じゃあね」と、お腹のあたりで小さく手を振った。
「うん、じゃあね」僕もそれに倣った。
綾は駐車場で待っているお母さんの車に乗り込み、帰って行った。

僕は十分程かけて家の近所のスーパーまで歩いた。食堂でソーキそばを頼むと、おばちゃんが「売れ残ったやつだから」と言って、いなり寿司を二個つけてくれた。

三学期が始まってから父は食事を作ってくれなくなった。お金もないので、しばらく給食だけで過ごしていた。クラスで休む人がいたら、余ったパンをもらって、土日に食べた。誰か病気になって休んでくれないかなと考えては、友達に対して何て事を考えるんだ、僕は結局自分が一番大事なのかと自己嫌悪に陥ったりした。その様子に盛隆先生が気付いたらしく、真一さんが家に来て、封筒をくれた。中身は三万円だった。見た事ない大金を眼に、僕は硬直したけど、「これでちゃんと、ご飯を食べなさい。お金のことがお父さんにバレたら取られるだろうから、気をつけなさい」と諭すように真一さんに言われ、頷いた。本当はご飯も炊けるし、味噌汁や卵焼きくらいなら作れるけど、家で作るとお金があるって分かってしまうかもしれないから、食堂に通うのが日課になった。

ソーキそばといなり寿司を平らげ、おばちゃんにお礼を言って店を出た。僕の身体は、色んな人の優しさで作られているんじゃないかと考えながら家に帰った。今日は、女の人が来ていた。シャワーを浴びて洗濯を回し、その間に宿題を済ませた。洗濯物を干して、部屋に戻り読みかけの灰谷健次郎の太陽の子を開いた。

しばらくすると向こうの部屋で、女の人が猫みたいな声を出し始めた。僕は机に突っ伏して、耳を塞いだ。このまま平手で耳を叩けば、鼓膜が破れて聞こえなくなるかなぁと考えたり、耳なし芳一の話を思い出し、耳以外に念仏を描いたら、何者かが耳を持って行ってくれるかなと想像したり、そしたら友達と話せなくなって困るな、でも綾だったら手話とか覚えてくれそうだな、手話の勉強しとこうかな、と考えているうちに、いつの間にか眠っていた。寒さで目が覚めて、音がしないように気を付けながら布団を敷いて、カーテンを開けたまま再び眠りについた。部屋に差し込む朝陽で目を覚まし、顔を洗って着替えを済ませ、静かに家を出た。